福島県浪江町出身の女性と、福島県富岡町に住む女性。2人は11年前、東京電力福島第1原発事故でふるさとを離れ、避難生活を余儀なくされた。オンラインの講座でつながり、これからの街づくりについて意見を交わした。
原発事故でふるさとを離れ避難 震災体験を語る
宮城県石巻市にある就労継続支援B型事業所「きゅう」は、心に障害などがある人たちが利用する事業所。
この記事の画像(18枚)ここで支援員として働く清水葉月さんは、小物作りに取り組む利用者のサポートにあたっている。
清水さんは福島県浪江町の出身。東京電力福島第1原発で爆発事故が起きたのは高校2年生の時だった。約1年間、千葉県に避難し、大学生の頃に女川町でインターンをしたことがきっかけで、石巻で仕事をするようになった。
仕事の傍ら、清水さんは別の団体でも活動している。
一般社団法人スマートサプライビジョンは、災害時に必要な支援を必要な人に、必要な分だけ届けるシステムの運営と、防災教育や防災啓発活動に取り組む団体だ。大川伝承の会の共同代表である佐藤敏郎さんが理事を務めている。
この団体では月に1度、オンラインで震災伝承や防災の講座を開催していて、清水さんは若い人が震災体験などを伝える時に、聞き役になって話を引き出す役割を担っている。
この日は、福島県富岡町で語り部活動をしている秋元菜々美さんをゲストに迎えた。
清水葉月さん:
秋元さんが震災に向き合うようになった経緯、というテーマでお話できればと思います。
秋元菜々美さん:
私の住んでいるエリアは福島第1原発から10キロ圏内の場所にあったので、このエリアの住民は翌日早朝に「隣の川内村に避難して下さい」って言われて。
2011年3月、中学1年生だった秋元さんは富岡町内で大地震に遭遇した。翌日には家族で隣りの川内村に避難し、その後も茨城県や千葉県で避難生活を続けた。富岡町は全域が福島第1原発から半径20キロ圏内の“警戒区域”とされ、原則立ち入りが禁じられた。
秋元さんの自宅のある夜ノ森北地区などのバリケードが撤去され、立入規制が緩和されたのは2022年1月だった。
秋元菜々美さん:
私の家こんな感じです。道路にスレスレの所に出ていて、ここが駐車場です。
秋元菜々美さん:
この辺りは津波もなかったし、地震の被害といっても外壁が崩れているな、というくらいで大きな家の損傷もなかった。その当日に話していた友達とも「明日ね」と言って別れて、それから数年会わないという、あまりに突然のことで自分の中で整理がついていなかったと思います。
”話したくなかった”福島と向き合う 原発が見える風景
中学生の頃、福島のことは言いたくない、見たくない、話したくなかったと振り返る秋元さん。転機は、16歳になって初めて一時帰宅した時だった。
秋元菜々美さん:
本当に町があったんだっけ?というような、私が過ごしてきた13年間は本当だったのだろうか?という気持ちになっていて。
秋元菜々美さん:
でも、帰ってみたら私の13年間はあったと思ったし、自分の生まれ育った町はここだったと思えたことがうれしくて。ちょっとネガティブな気持ちになるのかな、と覚悟して入ったんですが、それもなく純粋にうれしかった。
富岡漁港の南に、東京電力福島第2原子力発電所が見える。1982年に1号機が営業運転開始。2021年6月に廃炉作業に着手した。
秋元菜々美さん:
原発の排気塔があるんですが、町の中、大体どこからでも見える。身近ですね。というか、第2原発があって富岡、という部分もあるので。それは原発設置後に生まれた私だからだとは思うんですけど…
秋元菜々美さん:
私はこの建物があるこの風景が、自分の町だって思える。そういうものであって、それを一概に「負の遺産だから解体しよう」というのは、どんどん町が失われていくこと。何も伝えられる媒体がなくなってしまうという意味でも寂しいなと思うし、自分はどんな町に住んでいたんだっけ、と段々わからなくなっていく
手をつなぐ若者たち 復興は次のステージへ
清水葉月さん:
今、菜々美さんが言った原発の建物を震災遺構として残すというのも、多分私が個人として聞いていたら「本当に残すの?解体するもの、廃炉するものだよね」と聞くと思うんですけど、でもそういう“思い”を込みで聞くと、なるほどねと。確かにそういう視点もあるかなって思えて。
秋元菜々美さん:
私はもっと中立の立場で考えたいなと思っていて。原発を自分が住んでいる地域で稼働させるという事になっても、自分が選択したんだと言える状況が大事だし。
清水葉月さん:
福島の人は政府や東電にすごく怒っているとか、それに対して「町を返せ」みたいな感じになっている二極構造とか、それに対してどう思う?と聞かれる時期もあったかなと。そうじゃなくて、町の今までの流れの中で原発のこともあって、そこで向き合ってきた
秋元菜々美さん:
納得できれば、リスクへの備えも自分たちでしていく、という意識になっていくのかなと思う。何か仕組みが命を守ってくれるとか、自分のことを守ってくれる訳じゃなくて、自分の行動が変えていくんだって
11年前、突然の避難指示を受け入れざるを得なかった秋元さんや清水さん。避難もバラバラで団結しづらかった福島出身の若者たちが、地域づくりや震災伝承で手をつなごうとしている。
若い世代が責任を持ち、積極的に関わることで復興は次のステージに進んでいく。
(仙台放送)