1957年7月25日に発生した、長崎・諫早大水害。630人もの死者・行方不明者を出した。
あの夏の雨から65年、体験した人の高齢化も進む中、災害を語り継ごうと市民が努力を続けている。

「朝から雨がじゃんじゃんと…」 避難先にも押し寄せた濁流

13回目となった「諫早大水害を語り継ぐ」
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7月16日、諫早市民センターで開かれた「諫早大水害を語り継ぐ会」。水害を体験した人が高齢化していく中、2008年から始まり、2022年で13回目となった。

本明川を語る会・川浪良次 会長:
600人以上の方が亡くなって、この犠牲を無駄にしたくない。(他人事でなく)自分事として、いつ起こるか分からないということで備えをしていただければ

630人が犠牲となった諫早大水害

65年前、諫早を集中豪雨が襲い、本明川(ほんみょうがわ)が氾濫したほか、土砂災害も相次ぎ、630人もの死者・行方不明者を出した。

初めて「語り継ぐ会」の壇上に立った水害の体験者・西島重則さん(79)は、中学3年生の時にあの夏の雨の恐怖を味わった。

西島重則さん:
朝から、もう雨がじゃんじゃん降っていた。それが午後4時くらいにやんだ。でも、その時にはこの辺は低かったから、水がわーっと上がってきて

西島さんの自宅は本明川沿いの八天町にあり、平屋建てで、敷地も周囲より低い場所だったという。

当日の午後5時過ぎ、消防団が用意したゴムボートで自宅を後にした。この時間帯はまだ浸水地域は一部で、途中から消防自動車に乗り換えて避難したと話す。ところが…

西島重則さん:
避難先で「2階に上がれ!」って言われて。その時はもう、バリバリバリバリって車庫の方がやられて

西島さんの家族が避難した先の八坂町(やさかまち)の2階建ての住宅にも、夜に入り濁流が押し寄せた。

濁流が押し寄せた当時の状況を語る西島さん

西島重則さん:
一番ひどく水が来たときは、(1階の)天井からこれくらい(の水位)。ガンガン流れるわけですよ

西島さんはそう話すと、両手を20~30cmほど上下に離してみせた。1階の天井から、わずかな隙間しかできないほど、水に浸かってしまったという。

離れないよう親子をひもで結び…暗闇の中「流されたら死んでいたかも」

諫早大水害は、本明川の氾濫が知られているが、実際は上流域のあちこちで土石流が発生。押し流された土石や流木が流れ込んだことも、大きな被害につながった。

西島重則さん:
そして、とにかく真っ暗ですよ、停電になって。雷の音はしませんけど、稲光がピカピカっと3秒くらいですかね、その明かりで外を見るわけです。そしたら、水だけでなく、材木とか木材、めちゃくちゃですよ、グワーッと。いくら泳ぎが上手でも助からんなと思ったですもんね。そしたら今度は家が揺れたんですよ、グラっと

避難していた3家族は、水が2階まで来たときに備えて、物干し台まで上がろうとした。

西島重則さん:
家の中にいたら押しつぶされると言って、それで親子をひもで縛って

万一に備え、家族が離れ離れにならないようにと、それぞれをひもで結び合った。雨がピークを過ぎて水が引き、助かったという。

語り継ぐ会の男性参加者:
本当に先に逃げないといけないなと思う。雨が一番恐ろしいということが心にしみた。子どもたちにも伝えていかんなと思うですね

川幅が広げられた本明川

橋桁にかかった流木が流れをせき止めたとして、眼鏡橋は、当時あった場所から移設された。本明川の川幅も広げられ、今は穏やかな表情を浮かべている。

西島重則さん:
今、思い起こせば大変な経験。その当時は死ぬとは考えてなかったが、ひょっとしたら、流されたら死んでいたかもしれないという感じです

当時の混乱の中でも旧・諫早市は、市内で犠牲になった542人の名前を、町ごとに残していた。

これをもとに諫早市美術歴史館では2022年、初めて展示に犠牲者の名前を加えた。

あの夏の雨から65年。雨に消えた一人ひとりが、命の重みを訴えかけている。

(テレビ長崎)

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