日本球界で活躍する助っ人外国人選手たち。過去には現役最後の場所として来日する選手が多かったが、1989年に阪神タイガースで活躍したセシル・フィルダーは、その後メジャーで更なる活躍を見せることとなった。

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今回の『AKI猪瀬のMLBとっておきコラム』では、MLBジャーナリスト・AKI猪瀬氏が、フィルダーの偉大なる経歴と、波乱万丈なその後の人生を解説する。

日本球界に強烈な印象を残したセシル・フィルダー

一昔前の外国人選手と言えば、メジャーリーグでピークを過ぎたベテランやマイナー暮らしが長い苦労人が、“最後のチャンス”を求めて来日するケースが非常に多かった。その結果、日本球界が現役最後の場所となり、その後はフェード・アウトして行くパターンが一般的だったが、そのパターンを覆すキャリアを築き上げた選手がいる。

その選手とは、1989年に阪神タイガースでプレーした、セシル・フィルダー。

1985年7月18日にトロント・ブルージェイズでメジャーデビューを飾ったフィルダーは、トロント在籍4年間で通算220試合に出場して31本塁打を記録。一塁手・三塁手兼指名打者として起用されたが、チームの戦力構成上レギュラーポジションの確保が困難なシーズンが続き、当時の最高年俸は12万5000ドルだった。

フィルダーはレギュラーとして毎日プレー出来る環境を追い求めて、推定年俸105万ドルを提示した阪神タイガースと契約。在籍はわずか1年だったが、巨漢から放たれる豪快な本塁打は今でも野球ファンの記憶に残っている。

阪神時代は日本球界に強烈な印象を残した
阪神時代は日本球界に強烈な印象を残した

前評判覆し、大リーグで年俸1位のスーパースターに

阪神との残留交渉が不成立となったフィルダーは、デトロイト・タイガースと2年300万ドルの契約を結び、メジャー復帰を果たした。

当時は、メジャーでの実績に乏しい事や肥満体型などを理由に、フィルダーのメジャーでの活躍に懐疑的な意見が大半を占めていた。しかし阪神時代にバッティングフォームを改造し、変化球への対応能力を飛躍的に向上させていたフィルダーは、メジャー復帰初年度にメジャー史上11人目となるシーズン50本塁打を記録。

翌年も本塁打を量産したフィルダーは、復帰初年度から2年連続本塁打王、3年連続打点王を獲得。

1993年にはタイガースと5年3600万ドルの大型契約に合意した。この契約によって、95年と96年は、メジャーリーグ全体で年俸額が1位となり、名実共にメジャーリーグを代表するスーパースターとなった。

消息がわからなくなってしまったが…

1998年を最後に引退したフィルダーは、息子プリンスの代理人を務めるなど、引退後の生活も順風満帆と思われていた。しかし、2004年にデトロイト・ニュース紙の報道で、フィルダーのギャンブル中毒とアルコール依存症が原因で自己破産と離婚をしていた事が発覚し、息子プリンスとの関係も破綻してしまった。

その後、消息がわからなくなっていたフィルダーだが、ギャンブルやアルコールの依存症治療を受け、2007年に独立リーグの監督として社会復帰を果たした。

現在は、息子プリンスとの関係も修復され、落ち着いた余生をフロリダで過ごしている。

名も無き選手が日本球界を経て、メジャー復帰を果たしてスター選手になって行く「シンデレラ・ストーリー」は、投手であれば今後も十分に可能性は有るが、野手でフィルダー級の「シンデレラ・ストーリー」を演じられる選手は、現れないかもしれない。

AKI猪瀬
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