震災直後 避難所で ある男性と出会った

あの被災者は今どうされているだろうか。ちょうど11年前のことだ。2011年3月11日に発生した東日本大震災から数日後、避難所になっていた福島県須賀川市の体育館でその男性と出会った。時折激しい余震が襲い、体育館の天井から吊るされている照明やバスケットゴールがガタガタと音を立て、館内には悲鳴が上がる。そんな中、避難者に名刺を配っては福島第一原発で勤務している人のご家族がいないか探していた。一通りまわり玄関に戻ろうとした時、その男性は声をかけてきた。

「ちょっとマスコミさんさぁ、すぐ帰らないでちゃんと取材してくれよ」。怒気を含んだ声にギョッとして振り向いたのを思い出す。「その辺のガソリンスタンド見た?長蛇の列だっただろ?」。避難所に来るまでの全てのガソリンスタンドで、見たことのない長い車の列が伸びていた。

「ガソリンが何でないんだよ。俺たちが逃げ出すと日本中が大パニックになるから、政府は俺らをここに閉じ込めようとしているんじゃないか?」大きな亀裂や段差が無数にできてしまった東北道を福島まで走ってきたので、その状況を説明した。タンクローリーなどの大型車両が東北道を走るのは今難しいかもしれない、そう言ったところ大喝された。

「じゃぁ逃げたいのに逃げられなくても良いと言うのか?何か裏があるんじゃないかって、そういう姿勢で実態を取材してくれよ」。名刺を差し出し「仰る通りですね」と言っていなそうと思った。しかし名刺は無視され、男性はさらに畳みかけてきた。原発についてのメディアの取材姿勢についてだった。

「新聞もテレビもマスコミさんは社内ルールで原発近くには行かないって本当?地元を追い出された俺たちの町が今どうなっているのか、どんな状況なのか、本当に帰っちゃダメなのか、真っ先に入ってその状況を伝えるのがマスコミの役目だろう?なぜやらないんだ?」不意の問いに何の言葉も持ち合わせていなかった。

「俺らは下を向けば涙が落ち、上を向けば放射能が降ってくる。どこにも行けず、ここに閉じ込められているんだ。原発周辺には行かないと決めているマスコミに俺らの気持ちなんかわからないよ。」事実、福島第一原発から40キロ圏内には入らないよう会社から指示が出ていた。「お前らは無力だ」と言われたのに等しい指摘。口惜しさから二の句が継げなかった。それでも何かお役に立てることもあるかもしれないと声を励まし、何とか名刺を受け取ってもらって、その場を立ち去った。

震災1カ月後 福島第一原発の近くへ

40キロ圏内に入らないという当初の会社の判断は、1999年9月に発生した茨城県東海村のJCO臨界事故取材の教訓から来ていた。発生からしばらくの間、施設外部に放射線が漏れていたにも関わらず多くの取材者が集まってしまった。当時は原子力関連事故がおきた時の取材上の確たるルールはなく取材者の安全が守られなかったという反省があった。

未曾有の事態を前に「おそらく大丈夫だろう」と思い込むほど危険なことはない。福島の原発事故では、まず科学的な知見を得て取材の安全性を確認することが何よりも先決だった。当時、警視庁公安機動捜査隊(通称「公機捜」こうきそう)などのNBCテロ対策部隊(核・生物・化学兵器が使われたテロ現場などに出動する部隊)が福島県を中心に展開していた。

こうした部隊が測定していた各地の放射線量や原発の状況を具に把握したうえで、可能であれば原発近くの町が見たいと思っていた。誰もが簡単に行けない場所だからこそ、そこに赴いて状況を伝えることはメディアの仕事だからだ。

その機会はちょうど1カ月後、何回目かの福島取材をしている時に巡ってきた。福島第一原発が肉眼で見える距離の浪江町で、県警が行方不明者の捜索を行うというのだ。「社会部長が自分で車を運転して行くと言っているよ」。警視庁キャップが電話で知らせてくれた。「部長に行ってもらうわけにいかないし、ちょうどお前が福島にいるんだから、この取材俺らで行こうよ」。渡りに船の誘いに二つ返事で行くことになった。

出発前から広がる緊張感

取材当日となった4月14日、県警から指定された集合場所に着いて驚いた。多くの社が来ていないからだ。集合場所には来たものの、どういう訳か、そこから急遽帰って行った社もあったそうだ。そして特筆すべきは集まった記者たちの年齢である。明らかに多くの人が40歳以上に見え、中には50を超えていると思われる人々もいた。雑な言い方だが、若い人は殆どいなかった。

原発事故発生からわずか1カ月である。11日には震度6弱の余震が発生して福島第一原発の1~3号機の外部電源が落ち、注水作業が約50分停止していた。まだ発生初動の不安定な時期だった。取材中に不測の事態がおきれば命のやり取りになるかもしれない。そんな思いがなかったわけではない。取材が可能か否かでメディア各社の判断がはっきり分かれるのも無理はなかった。

この集合場所で警察官から防護服着用の指導を受ける。キャップと互いに介助し合いながら着替えた。キャップの手首足首など隙間という隙間を外部から遺物が入らないようテープで塞ぐ。人の安全を自分が担う、本来何でもない作業にさえ緊張を覚えた。

原発近くで記者が目にした光景は・・・

福島第一原発近くに向かう取材クルーの様子
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写真の奥に福島第一原発の煙突が見える

乗り込んだ車は国道114号線から459号線へ。浪江町の中心部に向かって東に進む。山道のトンネルに差し掛かると手元の線量計が0.1μシーベルトに下がり、トンネルを出ると20μ以上に急激に上昇する。福島市内では見たこともない線量表示の振れ幅から放射線にコンクリートが有効なことを初めて実感した。

街中に入ると洗濯物が出しっぱなしの家々が次々と現れる。住民が着の身着のまま大急ぎで避難したことがこの目でわかった。眩しいほどに咲き誇っている満開の桜並木が、かえって人っ子一人いない町の寂しさを際立たせていた。

浪江町役場を通過してようやく行方不明者の捜索が行われている高瀬川に到着。巨人が両手で押しのけたかのように、岸部は泥まみれの瓦礫で埋め尽くされていた。県警本部長が陣頭指揮を執るなか、捜索にあたっている警察官は泥の中から身元の特定に繋がる品々を丹念に拾い上げている。誰かの大切な思い出が詰まったアルバム、子供のランドセル、書類などが路上に並べられていった。

さらに請戸港近くに移動した。車窓から数頭の黒い牛が川岸を走っているのが見えた。自由になったかに見えたが、突然外に放り出され、これまで与えられていた餌なしで生き抜くことが出来るのだろうか。ぼんやり考えていると請戸橋に到着した。遠くに生い茂る森の木々から突き出ている煙突のような物が見える。目を凝らすと、煙突の下にはうっすらと四角い建物らしきものもあった。ついに見えた。あれが今、日本の命運を握る福島第一原発か。

請戸橋付近は原発から7キロ弱と目と鼻の先だが、放射線量は驚くほど低い。毎時0.4μシーベルト。事前に把握していたNBC部隊の測定値と変わらない数値だった。あたりに存在していたはずの建物は基礎部分ごと根こそぎ流されていた。剥き出しの土の地面が町ごとそっくり持っていった津波の爪痕だった。

「地元の桜はキレイなんだ」男性からの電話

こうした現地の状況はその日の夕方のニュースで伝えた。取材を終えて帰路についた車中、一息ついていると突然携帯が鳴った。

「テレビ見たぞ。原発の近くに行ったんだなぁ」。須賀川で出会った男性だった。浪江町でのリポートを偶然みて下さっていた。

突然の思いがけない電話に舞い上がって何を話したのか詳しくは忘れてしまった。この男性も無理やり家を追われ、家族や友人と別れ、人に明かせない悲しみや、やり場のない怒り、避難所生活でのいら立ち、日々大きくなる将来への不安、そんな思いを抱えながら必死に耐えて過ごしていたに違いない。自分のことだけでも精一杯の日々に、避難所でたった一度会っただけの私に、どうして労いの電話を下さったのか。その理由は未だにわからない。しかしあの電話が私にとってどれだけの励ましとなったことか。

「俺の地元の広野は桜がキレイなんだ。帰ることが出来たら招待するよ」上機嫌な男性の声だけが今でも耳に残っている。

(フジテレビ報道局・上法玄)

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上法玄
上法玄


フジテレビ 元社会部警視庁キャップ。警視庁捜査一課・警備部・公安部、宮内庁、厚生労働省を担当し、多くの事件取材のほか、新型インフルエンザ感染拡大や医療問題、東日本大震災を岩手福島両県で取材。 2015年までワシントン特派員。アメリカの大統領選や東アジア政策、対イスラム国政策などを取材。

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