2016年に九州地方を襲った熊本地震。熊本県益城町では震度7の揺れに2度も見舞われ、住宅の9割以上が損壊するなど甚大な被害が出た。その激震地で自宅を失った、一人の高齢女性が居場所を取り戻すまでの姿をお伝えする。

フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第26回(2017年)に大賞を受賞したテレビ熊本の「私は私を全うする ~佐々木ばあちゃんの熊本地震~」を掲載する。

地震を受けて益城町に向かったカメラは、救出作業が続けられる中で「私が死ぬとよかった」という声を拾った。自宅を失った、佐々木君代さん(84)のものだった。前編では、佐々木さんの避難生活を通じて被災者の実情に迫った。

(※記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)

「私が死ぬとよかった」地震での絶望

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これは熊本地震から1年で我が家に帰った、おばあちゃんの物語だ。
2016年4月14日。熊本県益城町は震度7の揺れに襲われた。倒壊した家屋。押しつぶされた車両。現地では、救急や警察による救出作業が行われていた。

地面に座り込んでいた、佐々木君代さん
地面に座り込んでいた、佐々木君代さん

そこでカメラが拾った声が、被災者の1人である佐々木君代さん(84)の声だった。地面に座り込み「私が死ぬとよかった」(私が死ねばよかった)とつぶやく佐々木さん。

佐々木さんは自宅の1階を借家にしていて、2階に閉じ込められた。自力で逃げ出して借家の住民も無事救助されたが、近所では多くの住民が建物の下敷きになっていた。

前震の28時間後、4月16日には再び震度7の揺れが襲った。2度の地震により、益城町では住宅約1万棟の9割以上が被害を受け、町内でも20人が犠牲となった。

佐々木さんは町の体育館に避難したが、1カ月には避難所を出てテント暮らしを始める。
家族で避難する人々に比べて、自分が常に1人となっているのがつらかったのだという。「家建てなんけん」と話し、この土地で我が家を建て直すことを誓った。

避難所を出てテント生活を始めたのは、佐々木さんだけではない。町民の約半分、最大1万6000人が身を寄せた町の避難所では、余震を恐れ建物の中に入ることができない人もいた。

熊本県は地震から1カ月で震度1以上の揺れが1400回を超え、車中泊や支援物資のテントを選ぶ人が増え始めた。雨風はしのげるが、80歳を超えた体には過酷な生活だ。

「『これからは私の力量で生きて見せる』て(避難所を)出てきたんです。ああいう生活していても、人間って無意識のうちに競争力とか、いろいろあるもん、感情が。それを見るのもつらかったし、別にケンカをして出てきたんじゃないけどね…自分を無くしそう。物をもらうのにね。支援はありがたいけどね。なんか惨めでたまらんかった」(佐々木さん)

高齢者向けの避難所に入るようにとも言われたが、佐々木さんは我が家のそばを離れない。日中はテントを出て、木陰に避難する。カメラには「築くのには汗水たらして、今度は涙たらして」と冗談交じりに話したが、その表情にはつらさも伺えた。

仮設住宅への入居も申し込んだが、完成は2カ月後だという。
 

全てを失っても健気に前を向く

道向かいに住んでいた、幼なじみの女性の月命日。佐々木さんは倒壊した家に献花し、涙を流していた。佐々木さんが慕ってきた女性は自宅の下敷きとなり、亡くなった。突然やってきた地震は寄り添って生きてきた大切な人をも奪った。

テントで地震当時を振り返った佐々木さん。「座ってるでしょ、お手洗い。終わりって思ったです。こうこう(揺れ)やり出した。ああ、私終わったって。死ぬと思ったんですね、瞬間…」などと話しながら、テント生活を「豪邸だけん」と冗談めかして表現した。

見慣れた景色が次々と姿を消していき、2016年7月、佐々木さんの自宅も解体作業が始まった。家財道具は押しつぶされ、取り出せそうなものはほとんどない。

かつての我が家を見て、「甘い人生でした。なんの世話もいらんで死ねると思っていましたけど。パートナーなしの人生をどう送りますやら…」とつぶやいた佐々木さん。それでも、カメラの前では健気な表情を崩さない。

「そういう育てられ方したね。婆さまが武家の出身だったんで、ひどく言われていた。自分というものを守れと。地震があってしまったと思ったね。でもまぁやっていくぞと。恨んでも仕方がない。生きていればこういうこともあったねと。戦争でやられとるけん。そのころは今みたいに(補償や支援は)ない。焼ければ焼け損だったけんね」

自宅から見つかった夫・虎雄さんとの思い出

そんな佐々木さんのテントに、1枚の写真が置かれていた。21年前に亡くなった、夫・虎雄さんと写った北海道旅行の思い出の写真で、自宅の解体中に唯一取り出せたものだった。

佐々木さんは30歳のときに虎雄さんと見合い結婚。2人の間に子どもはいなかったが、にぎやかに暮らしていた。佐々木さんがいうには、虎雄さんは“道楽おやじ”だという。

「賭け事、賭け事。この男(笑)。琵琶湖までいってたんですよ、競輪なんか。100万持って武雄(競輪場)にも行くし。自分のスーツは大阪まで作りに行って、私には2500円のスカート買ってきた(笑) すごく優しいんですよ。それがあの男、博打がある時は人が変わるんです。はっはっはっ…恨めしい男だ」(佐々木さん)

そんな中、虎雄さんが競輪ついでに買ってきたという、有田焼の皿が自宅から見つかった。受け取った佐々木さんは「(虎雄さんは)『これを売ったら1カ月くらい暮らせるぞ』といっていたけど…あんま未練はなか(笑) すいませんご丁寧に。ありがとうございました。おっさん喜びます」とし、解体作業をしてくれた人に感謝を述べた。

佐々木さんは60歳までデパートやスーパーの展示販売員として働き、その話術で食品や家電をたくさん売ってきたそうだ。定年後は新聞配達を始め、81歳まで午前2時に起きる生活を続けた、働き者。今でも移動はもっぱらバイクだ。

「私は私を全うしたい」居場所を取り戻す決意

そんな佐々木さんがある日、スリッパを購入した。話を聞くと「豪邸から格上げしたけん」と笑みを浮かべる。厳しい暑さが続く中、テントの隣に新しい仮住まいが届いていた。

ボランティア団体が用意した、小さなトレーラーハウスだ。地震発生から避難所、テント、トレーラーハウスと移り変わった日々を、佐々木さんはこう振り返った。

「過ぎ去った後は短かった、あっという間でしょうね。雨もつらいし不潔もつらいし、不潔がつらかったね。なってみらんとわからんです初めはね、取材に来た人が『なんでそがに笑っておれますか』とかいうもんね。泣けばどうなるんですか、笑っとらんと仕方ないしょと。泣いても泣いても戻ってこんしね…」

そして、自分を奮い立たせるようにカメラに向かって語りかけた。

「どういう老後ば送ると思うですか、私は。子もおらんし。でもね、みんな家は建てるなと言われるけど、私は私を全うしたいんです。それだけ。できる限りやってみる。生きた証。1世紀ばかり生きとるけんね、あと十何年で1世紀だ」

自宅が取り壊されていく。虎雄さんとの思い出が詰まった、ばあちゃんの“城”。この家で45年間暮らしてきたのだ。その光景を、佐々木さんは間近で見守っていた。

「見るのも嫌だけど、壊れていくのも嫌ね。口には出さんけど、取りたいものはいっぱいある。お金のものじゃなくて思い出の物がね。でも仕方ないやと思って。(家は)宝物じゃない、居場所。昔の武士は城に金、命かけていたじゃないですか。私には誰もおらん、家臣もおらん、1人で守らなん」

後編では、仮設住宅に入居した佐々木さんの喜びと訪れた孤独。自宅の再建を通じて、居場所を取り戻すまでの日々を追う。

(第26回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品『私は私を全うする ~佐々木ばあちゃんの熊本地震~』テレビ熊本・2017年)

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