普通なら嫌われるはずの病院に堂々と入っていく僧侶。生と死をみつめるセミナー代表・金子真介さんは、医者や看護婦の前でも講演を行っている。

フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が、今年で第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を各局がドキュメンタリー形式で発表。

今回は第4回(1995年)に大賞を受賞したテレビ長崎の「道ゆきて~ある僧侶の一年~」を掲載する。

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金子さんは、自身ががんを患ったことをきっかけにセミナーを開くようになり、その活動は宗教を超えてカトリックの修道院などでも行われ、シスターを目指す生徒たちにも講演を行っている。

後編では、介護を続ける中で「自分の方が必要としていたのかも」と語っていたいた母親との別れ。そして、宗派を超えて理解され始めた“死の準備教育”を広める金子さんの思いに迫った。

(※記事内の情報・数字は放送当時のまま掲載しています)

【前編】「死を自覚し、どう生きるか」 がんを経験した僧侶が修道院・看護学校でも伝える“死の準備教育”

僧侶の仕事と母の世話に負われる日々

美恵子さんの食事を手伝う金子さん

長崎・大村市の「禅心寺」で、母・美恵子さんと一緒に暮らす金子さん。

金子さんの一日は、僧侶の仕事が半分、母の世話が半分の生活だという。美恵子さんは、年とともに食物を飲み下すことが難しくなり、1回の食事が1時間以上かかることもある。

明治41年、神奈川・鎌倉市に生まれた美恵子さんは、19歳のとき、佐賀県の寺に嫁いだ。それから60年間、住職の妻として寺を守り続けながら、6人の子どもを産み、育てた。

金子さんと一緒に歌う美恵子さん

毅然とした“明治の女”で、厳しい母親だったという美恵子さんが今、一番心安らぐのは、故郷・鎌倉の歌を歌う時だという。

夜になると、美恵子さんはグレゴリオ聖歌に聞き入っていた。寺に嫁いだものの、若い頃はよく教会の日曜学校に出かけたという。その時聞いた聖歌は、今も彼女の記憶に鮮やかに残っているようだった。

午後11時すぎ、ようやく金子さんが一人になれる時間がやってきて、美恵子さんの世話に追われた1日が終わる。

夏を迎え、家の中で転倒し右腕を骨折した美恵子さんは、ベッドの上で過ごす時間が多くなっていた。

人生の大半を寺で過ごした美恵子さんは、朝夕のおつとめを今でも欠かさない。それは、けがをしてからも変わることはないという。

深夜も介護を続ける金子さん

美恵子さんの食事の世話をし、深夜も3時間おきにトイレへ連れて行く金子さんは、母について「命の共有」と考えていると明かした。

「これだけくっついて暮らしていると、母の命というものを共有しているというか。普段の生活の中では、面倒くさいと思いますよ。寝たり、起こしたりして煩わしいと思いながら、これだけ死を正面から考えなきゃいけないとなってきたら、彼女の命というのは、もしかしたら私の方が、うんと必要としてるんじゃないかなと」

人生の表も裏も見せて…母との別れ

美恵子さんを見舞う金子さんの姉・正子さん

9月になると美恵子さんは食べ物を受け付けず、衰弱がひどくなり、ベッドで寝たきりになった。
金子さんは先生と話し合い、無理な延命をせず、必要最小限の点滴だけで成り行きを見守ることにした。福岡に住む金子さんの姉・林田正子さんも、母を気遣い駆けつけた。

横たわる母を見つめる金子さんは以前、講演で親について語っていた。

「枯れていく親の与えてくれる素晴らしさというのは何か。それは、良寛(江戸時代後期の僧侶)の最期の歌そのままであります。『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』ということなんですよ。

子どもは、表だけを見ておきたいんです。表だけを見て、きれいなところだけで、いつまでも背中におぶってくれた、あのままの母であってほしい。ほしかった。だけど、美しいものだけではなく、目を覆いたくなるようなものもあるんだ。その表も裏もあって、人生というものである。

それを完全に私どもに納得をさせて、そして納得したところで、親の役割というものが終わったという顔で、そして呼吸が止まっていくのではないだろうかって、そんな気もいたします」

ベッドのそばでは、セミナーの会員でもある看護婦2人が、24時間態勢で付き添ってくれていた。親しい人たちがベッドを取り囲んで見守り、みんなで「鎌倉」を歌った。

美恵子さんがベッドに入って3日目、呼吸が次第に浅くなり始めた。

お別れの言葉をかける金子さん

金子さんたちは、美恵子さんにそれぞれ感謝の思いを伝える。そして、医師が臨終を告げると、金子さんは「お母さん、お疲れ様」と優しく話しかけた。

美恵子さんの訃報は、金子さんが講演をした修道院「お告げのマリア修道会」の生徒たちのもとにも届き、祈りが捧げられた。そして告別式では、生徒たちによる聖歌がテープで流された。

美恵子さんが亡くなってひと月。金子さんは修道会を訪れ、感謝の気持ちを伝えた。

「告別式の時、彼女たち(シスターを目指す生徒)の声をずっと聞かせて、会葬者の方は皆さん、ちっとも違和感がなくて。最後までずっと、見送りをするまでずっとかけ続けて。だから、すごく穏やかな顔で逝ったんですけれど、その力がいっぱいあったんじゃないだろうかって」

「終わりではなく、始まり」と語った中村会長

金子さんの言葉を聞いたお告げのマリア修道会・中村鈴代会長は、「終わるのではなく、新しい何かが始まる」と語った。

「終わるのではなく、新しい何か、煌めくものがここから始まるという、そんな気がするんですね。それで人生の意味が、はっきりとしてくるような気がするんです。生きて、死で終わってしまうものなら、それはないような気がするんです」

 “宗教家”とは生命の尊厳に気付く手伝いをすること

1995年1月。母を亡くして初めての正月を迎えた金子さんは、勉強に打ち込んでいた。

「落ち込む時間があったら、勉強した方がいいじゃないかなと。母は、『どういうお坊さんになるか。偉くも立派にもならなくていいけど、真面目なお坊さんになってもらいたい』と言っていた」

「『勉強をこれからもするから、もうそれで勘弁してよ』って。そういうところが、正月に思った一番大きいところ」

金子さんはそう笑いながら語った。

これまで金子さんたちは、死の準備教育の必要性をより多くの人に理解してもらうため、セミナーの集大成として年に1回、大村市内で文化講演会を開いてきた。
入場無料の文化講演会も6回を数え、市民の間にも定着してきた。

佐藤賢道さんと今後の活動について話し合う金子さん

活動の輪を広げるため、文化講演会を長崎市でも開こうとしていた金子さんが、パートナーの佐藤さんと今後について話し合っていた。

「今回、お告げのマリア修道会と協力しあって、人の心に宗教の免疫を植え込むというか、ほんの一つの手伝いをさせてもらえばいい」

1995年4月、長崎市での初めての講演会には、開演前から長い列ができていた。講演会では、お告げのマリア修道会が趣旨に賛同して協力し、シスターたちが聖歌を披露してくれた。

金子さんが、宗教を超えた結び付きの素晴らしさを語る。

「生命の尊厳というものに気付いていただく。及ばずながら、そのほんのわずかなお手伝いをやっていくということをライフワークとしている人が、“宗教家”と呼ばれる人であります。

私どもが、カトリックの方と手を携えることができたその力は、どこに向けていくべきか。それは、宗教家のライフワークとして恥ずかしくないこと。今をより豊かに生きるために、生と死を見つめるという、そこに講演会というものの意義があるわけでございます」

医療の現場でも、死の重さが語られ始めている。
聖フランシスコ病院では、「宗教家といった人たちを含めたチーム医療というのが、特にターミナルの場合には大切になっていくのではないか」などの声が上がっていた。

母・美恵子さんが亡くなって半年がたったころ、シスターとしての第一歩を踏み出す終生誓願式を終えたばかりのシスターが、禅心寺に訪ねてきてくれた。

思わぬ訪問に金子さんは、「お母さんも喜んでいるよ」と笑顔を浮かべた。そしてシスターたちが祈りを捧げ、聖歌を歌う。

金子さんが講演で語ったことがある。

「私の人生は、たまたま道で出会った人。たまたま声をかけてくれた人。そして、たまたま行った教会。そういう人と人との出会い。そういうものの中から、『お前の行く道はこっち』と言って、おぼつかない足取りを繰り返しながら、今日に来ているような気がいたします」

「キリスト教や仏教という境目を越えた、宗教という大きな樹木の土の下の部分、根の部分。共通の私どもに言える大いなるものの力に惹かれて、私どもは、宗教という道を歩いているのではなかろうかと思います」

(【前編】『「死を自覚し、どう生きるか」 がんを経験した僧侶が伝える“死の準備教育”』)

(第4回FNSドキュメンタリー大賞『道ゆきて~ある僧侶の一年~』テレビ長崎・1995年)

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