女子高生の自殺事件を追うドキュメンタリーディレクターの由宇子。その彼女が父から明かされた衝撃の事実によって、自らも“被写体”の立場に置かれることとなり、最後は究極の選択を迫られることになる。世界の映画祭を席巻し日本全国でヒット中の映画『由宇子の天秤』。監督の春本雄二郎氏が、テレビ、そしてネットや映画について語った。(聞き手:フジテレビ解説委員鈴木款)

春本雄二郎監督(筆者撮影)
春本雄二郎監督(筆者撮影)
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メディアが切り取る情報で叩かれる社会

――もともと監督はテレビ業界でドラマ制作の現場にいたんですね?この映画はノンフィクションの現場が舞台ですが、作ろうと思ったきっかけは何だったのですか。

春本氏:
土曜ワイド劇場や時代劇の制作に携わってきましたが、ノンフィクションはやっていなかったんです。僕がこの映画の着想を得たのは、ある小学校のいじめによる自殺事件でした。この事件では加害少年の父親と同姓同名だった他人がネットリンチに遭ってしまった。

そこでなぜそんなことが起こるのか考えると、メディアが加害少年の家庭環境を取り上げてそこだけに問題があるかのように切り取り、視聴者は加害側へのヘイト感情を抱きやすくなってしまったんですね。メディアの煽情的な見出しで切り取られた情報によって白か黒かのジャッジを市民が迫られる。そしてその市民によって、つまずいた人が徹底的に叩かれる社会で、私たち自身がもしつまずいてしまったらどんな選択をするのか。情報を扱うメディアとそれを受け取る人々に警鐘を鳴らすことができればと思いました。

「私たち自身がつまずいてしまったらどんな選択をするのか」
「私たち自身がつまずいてしまったらどんな選択をするのか」

――この作品では子どものいじめによる自殺の真実を、主人公のドキュメンタリーディレクターである由宇子が追う設定ですね。

春本氏:
当初の設定は主人公が視聴率狙いで加害者家族のドキュメンタリーを撮るというものでした。しかしその設定だと偏りすぎていると思って、主人公が加害者家族にきちんと向き合う設定に変えたんです。光が当たっていない人達に光を当てる使命感を持っている主人公が、今度は自分自身に光を当てなければならない状況に追い込まれる。その時に人間はどういう本性を出し、どんな判断をするのか。自分自身にも踏み絵を迫りたくてこの映画を作ろうと思いました。

主人公が加害者家族にきちんと向き合う設定にしたかった
主人公が加害者家族にきちんと向き合う設定にしたかった

犯人を吊し上げるだけの報道に意味は無い

――いじめによる自殺の問題は私もこれまで報道してきましたが、映画の中では由宇子が所属するプロダクションの社長が主人公に対して、「学校側を敵にして、それと闘う長谷部さん(自殺した子どもの父親)”という形にしろ」と命じるシーンがありましたね。

春本氏:
誰が悪かったのかと犯人探しをして吊るし上げるだけの報道には意味がないと思うんですよ。自殺した子どもがなぜ死ななければならなかったのか、自殺に至るまでに我々は何かできたのではないかという検証のために報道はされるべきだと思っています。

何のための発信・表現かということを僕らは考えて、今後発信し、表現していかないといけないと思います。結局大切なことは報道(=情報)によって誰を幸せにするのかということなのではないでしょうか。

犯人を吊し上げるだけの報道には意味が無い
犯人を吊し上げるだけの報道には意味が無い

――制作会社のプロデューサーは、「俺たちがつないだ(編集した)ものが真実なんだよ」と怒鳴ります。これはメディアリテラシーを考える上で、重要な台詞だと感じました。

春本氏:
テレビのドキュメンタリーやニュースでは、カメラマンやディレクターの「これをこういうふうに撮影したい」という主観が必ず入っています。しかし視聴者は、こうした撮影者の存在を忘れてしまっている部分があると思います。

僕はテレビには複数の放送局があるのだから、それぞれの局が違う視点で報道し、我々が「あれ?あの局ではこう報道していたけど、こっちの局はこう言っているよ」と選択できる環境がほしいと思っています。報道が視聴者を育て、視聴者も報道を監視するリテラシーをもつ相互作用が大事だと考えます。

実は映画も同じで、作り手が観客に「ここまで言わないと多分わからない」と説明過多になり過ぎると、観客も考えることを忘れて受け身になる。つまり観客の読解力に委ねられない作り手の小ささが観客の映画リテラシーを下げているのです。

『由宇子の天秤』は僕なりの“闘い”だ

――いまのテレビと映画業界の現状は共通点が多いと。

春本氏:
僕がテレビに対して思うのは、スポンサーがいる以上いろいろしがらみや視聴率重視が生じるのはやむを得ないにしても、そこでいかに闘うかだと思います。

これは映画もすごく似ていて、スポンサーありきの商業作品の場合、観客動員数のために演技力がなくても認知度があるキャストを使うとか、お客さんが好みそうな脚本に変えるとか、そういうしがらみがつきまといます。でも僕はクリエイティブな面で制限のない中で映画を作っていきたいので、『由宇子の天秤』は僕自身がお金を集め、企業のお金は入っていません。僕なりの“闘い“なわけです。

「由宇子の天秤」は僕なりの”闘い”だ
「由宇子の天秤」は僕なりの”闘い”だ

――映画ではネットによるいじめや噂の拡散についても取り上げていました。いまネットは益々我々の生活に浸透していますが、これによってメディアリテラシーは向上していると思いますか。

春本氏:
それは逆のような気がしますね。ネットの進歩によって情報が最適化されるようになり、自分に心地いい情報しか自身のタイムライン上に流れなくなる。そうすると自分以外の意見があってもすべてそぎ落とされ、自分以外の人に対する想像力や共感がなくなっていく。だからたまに自分と違う意見に遭遇すると「おかしくない?」ってなるんですよ。

ネットはテレビに比べてまだまだ未成熟な分野です。ネットのニュースや番組は玉石混交だと思いますが、これから戦国時代になって残るべきものは残り、それ以外は“生まれては消える”を繰り返すでしょう。人々もまだネットリテラシーに大きな差があるので、“石”を信じてしまうリスクもあります。両方を高め合っていくのが課題だと思いますね。

映画には様々な解釈があっていい

――最後にもう一度映画について伺います。ラストシーンで主人公が真実を巡るある選択を迫られます。ネタバレになるのでこれ以上詳細には触れませんが、ラストシーンに込めた監督の想いとは何ですか?

春本氏:
この映画では様々な事象において誰が本当のこと言っているかわからないし、真実がどこにあるかも分からないようにしています。そもそも現実世界において、真実は多面的であって、我々がどの面を見て選ぶのかにかかっているのです。情報とは自分がどれを選択して信じるかということです。

どうして主人公がそういう選択をしたのかについては、様々な解釈があっていいと思いますし、ぜひ映画を観た後、語りあっていただきたいです。そこで様々な視点や解釈があることを再認識していただけたらと。それこそが映画体験の素晴らしさだと思います。

現実世界において真実は多面的だ
現実世界において真実は多面的だ

――ありがとうございました。

『由宇子の天秤』を観終わったとき、メディアで働く者として様々なことを突きつけられたと感じた。そしてこのインタビューで、その感情がなぜ沸き起こったのかが理解できた気がする。

この映画はメディア業界にいるものに、必ず観た方がよいと断言する。なぜならいまの自分たちの存在意義についてもう一度考える大切な時間となるからだ。

【執筆:フジテレビ 解説委員 鈴木款】

【写真提供:©️2020 映画工房春組 合同会社】

鈴木款
鈴木款

政治経済を中心に教育問題などを担当。「現場第一」を信条に、取材に赴き、地上波で伝えきれない解説報道を目指します。著書「日本のパラリンピックを創った男 中村裕」「小泉進次郎 日本の未来をつくる言葉」、「日経電子版の読みかた」、編著「2020教育改革のキモ」。趣味はマラソン、ウインドサーフィン。2017年サハラ砂漠マラソン(全長250キロ)走破。2020年早稲田大学院スポーツ科学研究科卒業。
フジテレビ報道局解説委員。1961年北海道生まれ、早稲田大学卒業後、農林中央金庫に入庫しニューヨーク支店などを経て1992年フジテレビ入社。営業局、政治部、ニューヨーク支局長、経済部長を経て現職。iU情報経営イノベーション専門職大学客員教授。映画倫理機構(映倫)年少者映画審議会委員。はこだて観光大使。映画配給会社アドバイザー。