球史に残る活躍を見せた“平成の怪物”、プロ野球・埼玉西武ライオンズの松坂大輔投手(41)が、10月19日引退会見を行った。
松坂大輔投手:
今季をもちまして引退することをここに報告させていただきます。

――引退する今の心境は? 選手は、だれしもが長くプレーしたいと思い、こういう日がなるべく来ないことを祈っていると思うんですけど?
松坂大輔投手:
うーん。なんか、きょうという日が、来てほしかったような、来てほしくなかったような、僕今、同じこと言いました? 大丈夫でした? 来てきてほしいような、来てほしくなかったような、そんな思いがあったんですけど...。現時点では。まだすっきりしてないんですかね、このあとに投げることになってますし、投げることができて、そこで自分の気持ちもすっきりするのかなと。すっきりしたいなと、思っています。
――来てほしいとは、どういう思い?
松坂大輔投手:
今の自分の体の状態のこともありますし、続けるのが難しいと思っていたので、できるだけ早く、こうして皆さんの前に出てきて報告できればよかったんですけど、7月7日に引退発表があって、当初球団とは、すぐに会見を準備してもらう予定だったが、僕自身が発表したものの、なかなか受け入れられなかった。その発表したにもかかわらず、気持ちが揺れ動いているというんですかね。会見するのもなと思って、球団にちょっと待ってくださいと言って。まあだいぶたっちゃったんですけど、発表してから3カ月間、やれそうだなって思った日は一度もなかったですね。なので、できるだけ早く、終わらせられたらいいんだろうなって思い、過ごしていました。
――引退を決断した一番の理由は?
松坂大輔投手:
昨年の春先に、右腕のしびれが強く出るようになって、その中でもなんとか投げることはできたんですけど、コロナ禍の中で、緊急事態宣言になり、トレーニングも治療もままならない中で、症状が悪化して、できれば手術は受けたくなかったですけど、本当に毎日のように首の痛みや、右手のしびれで寝られないことが続いて、ちょっと精神的にまいってしまったっていうのもあって、手術を決断したんですけど、これまで時間をかけてリハビリしてきましたけど、なかなか症状が改善しなかった。その中でも、ことしもキャンプ、キャンプ以後も、もうそろそろ、バッティングピッチャーやって、次にはファームの試合投げられそうだねってところまできたんですけど、その話をした矢先に、ブルペンの投球練習の中で、何の前触れもなく、右バッターの頭の方に、ボールが抜けた。ちょっととかそういうレベルではなく、とんでもない抜け方。そういうときは、ピッチャーで指先の感覚で引っかけたりするが、それができないくらいの感覚のなさ。そのたった1球で、僕自身がボールを投げることが怖くなってしまった。そんな経験は一度もなかったので、自分の中でのショックが大きかった。松井(稼頭央)2軍監督に相談して、ちょっと時間くださいとお願いしたんですけど、時間をもらったんですけど。右手のしびれ、まひの症状が改善しなかったので、これはもう投げるのは無理だなと。それで、やめなきゃいけないと自分に言い聞かせた感じですね。
――決意が固まったのはいつ?
松坂大輔投手:
球団に報告する1週間前くらいだと思う。球団にいって休ませてもらったのが5月の頭くらいだったので、2カ月間悩んで、その中でも、治療を受けに行ったりして、その中でも、投げられるようになればとは思ったんですけど、ほぼ変わらず時間ももうないと思い、決めた。
――その期間、だれかに相談は?
松坂大輔投手:
もう難しいかもしれないという話は、家族にはしていました。
引退について家族の反応を聞かれた松坂投手の目に涙が…
――家族はどんな反応?
と、松坂投手の目から涙がこぼれる
松坂大輔投手:
ああ、もう。だから会見したくなかったんですよね。ちょうどやめると決断した時に、妻に電話したんですけど、その時、ちょうど息子がいて...。「本当に長い間お疲れさまでした」と、言ってもらいましたし、僕の方からも、「たくさん苦労かけたけど、サポートしてくれて、ありがとう」という言葉を伝えさせてもらいました。
――家族の支えへの感謝の涙か?
松坂大輔投手:
ひとことで感謝と言ってしまえば、簡単なんですけど、そんな簡単なものではなかったですし、いい思いもさせてあげられたかもしれないですけど、家族は家族なりに、我慢というかストレスがあったと思いますし、本当に長い間我慢してもらったと思う。
――一番感謝を伝えたいのは?
松坂大輔投手:
妻もそうだし、子供もたちもそうだし、両親もそうだし、これまで僕の野球人生にかかわったアンチのファンも含め、感謝している
――今後は?
松坂大輔投手:
家族と過ごす時間を増やしながら、違う角度で野球を見ていきたいし、野球以外にも興味あるので、そういうことにもチャレンジしていきたい。球界、スポーツ界に、何か恩返しできる形を作っていけたらいい。
――プロ23年間はどういうもの?
松坂大輔投手:
23年本当に長くプレーさせてもらったが、半分以上は故障との戦い。最初の10年があったから、ここまでやらせてもらったと思う。僕みたいな人、なかなかいないかもしれない。一番良かった時期と、そのあとのどん底も同じくらい経験した選手はいないかもしれない。
――自分から見た松坂はどんな評価?
松坂大輔投手:
長くやった割には、思ったより成績残せなかったなと思いますね。通算勝利数も、170個。積み重ねてきましたけれど、ほぼ最初の10年で勝ってきた数字。150勝が2010年くらい。自分の肩の状態は良くなかったが、そこからさらに上乗せできると思っていた。
――ほめてあげたい部分は?
松坂大輔投手:
選手生活の後半はたたかれる方が多かったが、それでもあきらめずに、諦めの悪さをほめてあげたい。もっと早くやめていもいいタイミングはあったと思いますし、なかなか思ったようなパフォーマンスを出せず、自分自身苦しい時期も長かったが、その分、たくさんの方にも、迷惑かけてきたけど、よく諦めずにここまでやってきたと思います。最後は、これまではたたかれたり批判されたりすることに対し、力に変えて跳ね返してやろうと思っていたが、最後は、それに耐えられなかった。最後、本当に心が折れたというか、今まではエネルギーに変えられたものが、受け止めて跳ね返す力はなかった。
一番印象に残っている試合は?
――名勝負、最も印象に残っているのは?
松坂大輔投手:
その質問されると思って、いろいろ考えていたが、いろいろありすぎてなかなか、この人、この試合、この1球と決めるのは難しい。見て感じるもの、記憶に残るのはひとそれぞれ違う、何かのきっかけで、松坂あんなボール投げてたな、あのバッターと対戦してたな、あんなゲームあったなって、思い出してくれたらいい。
――18番への思いは?
松坂大輔投手:
小さい頃、プロ野球を見て、巨人戦しかやっていなかったが、その中の桑田さんの「18」はすごくかっこよく見えて、最初に受けた衝撃がすごくて、エースナンバーと知る前から、プロに入ってやるなら18番つけたいと思い、やっていたし、「18」という数字、こだわってきたというか、周りにいい加減にしろと言われるくらい、つけたがる自分がいた。最後に18をつけさせてくれた球団には感謝したい。
――18をつけ、最後の登板になるが?
松坂大輔投手:
本当は投げたくなかった。今の自分の体の状態もあるし、この状態でどこまで投げられるのかというのもあったし。これ以上、駄目な姿を見せたくないと思っていたが。引退をたくさんの方に報告したが、最後ユニフォーム姿の松坂を見たいと言ってくれる方々がいたので、もうどうしようもない姿かもしれないが、最後の最後、全部さらけ出して見てもらおうと思った。
――セレモニーは?
松坂大輔投手:
特にはないが、セレモニーは、改めてファン感謝デーでやる。そこで伝えられたら。きょうは試合後、グランド1周し、スタンドにあいさつ。きょうやるとナイターで、みなさん時間もあるし...。僕の気遣いです。終電もあるし。
――松坂投手にとって野球とは?
松坂大輔投手:
気の利いたこといえればいいんですけどね、5歳くらいで始めて35年以上、ここまで来た僕の人生そのものだと言えますし、僕の、本当にたくさんの方々と出会い、助けてもらい、生かされてきた。本当に皆さんには感謝しています。その思いを込めて、何球投げられるかはわからないが、最後のマウンドに行ってきたいと思う。
――野球への思いがゆらいだことは?
松坂大輔投手:
僕だけじゃなく、ほかにも、けがをしたり、結果が出ない選手もいると思う。その時間は、周りが思うより苦しい。でも僕は、野球を始めた頃からの野球の楽しさ、野球が好きだと、その都度思い出して、戦っていた時期はあった。どんなに落ち込んでも、最後は野球が好きだ、まだ続けたい、後半はギリギリのところでやっていた。いつ切れてもおかしくない。
――今も野球が好き?
好きなまま終われてよかったです。
――ブルペンの話はいつのこと?
松坂大輔投手:
4月頃だと思う、ゴールデンウィークくらいから休ませてもらった。4月の終わりころだと思う。
――自信も持って投げられた最後は?
松坂大輔投手:
2008年くらいですかね、今でも忘れないというか、細かい日付は覚えていないが、2008年の5月か6月か、チームがオークランドに遠征中、前の試合で投げてブルペンで調整中、向かう時に足を滑らせ、とっさにポールをつかんで、その時に右肩を痛めてしまい、そのシーズンは大丈夫だが、そのシーズンオフに、いつもの状態じゃないと思い、そこからは肩の状態を維持するのが大変、フォームが変わったのは2009年、その頃には痛くない投げ方。その時には、自分の求めるボールは投げられてなかった。その時の最善策を見つける。そんな作業をしていた。
―― 松坂世代への思いは?
松坂大輔投手:
いい仲間に恵まれた世代だったと思う。仲が良かったし、言葉に出さなくてもわかり合えた。「松坂世代」という言葉がついてましたけど、自分はこう、「松坂世代」って言われるのは好きではなかったが、周りの同世代、みんなが嫌がらなかったおかけで、ついてきてくれたというとおこがましいが、そんなみんながいたからこそ、先頭を走ってくることができた。みんなの接し方がありがたかったと同時に、自分の名前がつく以上、その世代の、トップでなければならないと思ってやってきた。それがあったからこそ、最後まで諦めずに、ここまで諦めずにやれてきたと思いますし、最後の1人になった(和田)毅には、僕の前にやめていった選手が僕らに託していったように、まだまだ投げたかった僕の分まで投げてほしい。できるだけ長く投げてほしい。同世代の仲間にも感謝している。
――マウンドへ登るとき、心がけていたのは?
松坂大輔投手:
この23年間、あまり自分の状態が良くなくて、投げたくないと思う時期もあった。やっぱり、最後は逃げない、立ち向かう、どんな状況でもすべて受け入れる、自分に不利な状況も跳ね返してやる。試合のマウンドに立つその瞬間には、必ずその気持ちを持つようにしていた。ギリギリまで嫌だと思うときもあったが、立つ時には、その覚悟を持って立つようにしていた。
大舞台に立つ心構えは?
――大舞台に立つ子供へアドバイスは?
松坂大輔投手:
このマウンドに立てる自分はかっこいいと思っていた。思うようにしていた。目立てる舞台に立てる自分がかっこいいいと思うようにしてたからなんですかね。毎回勝てたわけではないが、そういう舞台に立てるのはかっこいいことだと思う。みんなには、そういう舞台に積極的に立ってほしい。
――後悔、心残りは?
松坂大輔投手:
ライオンズに入団し、東尾さんに200勝のボールもらい、自分も200勝してお返ししたかったと思う。それは1番先に思う。ちゃんと持ってますよ、200勝のボールは。
――苦労した自分に声をかけるなら?
松坂大輔投手:
もう十分やったじゃん。長い間、お疲れさまって言いますかね。
――家族からねぎらいの言葉は?
松坂大輔投手:
家族も、僕の体の状態わかってたし、実際にやめるよって言う前にも、もうそろそろやめるかもねって話をした時には、喜んででいた。遊ぶ時間が増えてうれしいと。でも、実際報告した時にはみんな泣いてたんで、「やった。お疲れさま」って言われるかと思ったが、泣いていた。僕にはわからない感情を、妻や子供たちはもっていたのかもしれない。それを知って、あらためて感謝の気持ちと同時に、申し訳なかったという気持ちがあった。あまり家族のこと言いたくないし、言わないようにしてきたが、妻と結婚してもらう時も、批判の声や、たたかれることもたくさんあると思うけど、自分が守っていくからと言って結婚してもらったんですけど、半分以上、それができなくて本当に申し訳なかったと思います。妻は本当に、関係ないところでたたかれることもあり、本当に大変だったと思う。迷惑をかけたと思うが、その中で、ここまでサポートしてくれてありがとうございました。とあらためて言いたい。
――引退し家族とやってみたいことは?
松坂大輔投手:
最近、庭で野菜を育てたりしている。そんなことを楽しみたい。大したことじゃないかもしれないが、そういうことをさせてあげられなかったので増やしていきたい。
―― 「諦めの悪さをほめてあげたい」と言ってい、諦めの悪さの原動力は?
松坂大輔投手:
すべてがそうではないが、諦めなければ最後は報われると、それを強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園PL(学園)との試合、今もぱっと、あの試合がすぐに浮かんだ。やっぱりあの試合があったからこそ、最後まで諦めなければ報われる、喜べると、あの試合が諦めの悪さの原点だと思う。
(終わり)