福島・浪江町、東京電力福島第1原発から10km圏内の場所にある町。
この町に生まれ、結婚し、子どもを授かった女性がいる。震災後、広島県坂町に移り住んだ女性の今を取材した。

津波に襲われ、あれから10年

広島・坂町の県営住宅に住む渡部恵子さん(62)。

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渡部恵子さん:
あれから10年。忘れたくても忘れられないよね

午後2時46分、深く目を閉じ犠牲者へ祈りをささげた。

渡部恵子さん:
いつも話すんだけど、うちのお父さんと。きょうも朝、きょうで10年だよ。そばにいたら何て声かけるのかななんて思いながら

2011年3月11日、東北地方を襲った東日本大震災。

渡部さんはあの日、東京電力福島第1原発から約8km離れた福島・浪江町の自宅に、夫・洋行さんといた。

渡部恵子さん:
こんな地震、わたしも初めてだなっていう感じの地震だったね。いったん外に出て、近くの人たちがね、みんな真っ青な顔でたたずんでいたから。近くの山ね、神社の山あるんだけど『そこに上がれ、津波が来るぞ』って言って

渡部恵子さん:
海の方を見たら棚塩地区の煙がすごかったから、「お父さん、火事だよね」って言っていた。消防の人が来て「棚塩地区や請戸地区は火事?」って言ったら、「津波だ」と言われて、「どこまで津波来てる?」って。サイレンも凄かったし、今でもトラウマになってますけどね

自宅から程近い小学校に夫と避難した渡部さん。

地震や津波による町全体の被害が分わからないまま、朝を迎えまる

渡部恵子さん:
家があるべきものが、家がないのよ。一軒もないのよ。「あの家どこに消えた?」って言った話は覚えている

浪江町の沿岸部は15.5メートルの大津波に襲われ、182人が死亡。このうち150人は津波による溺死だった。

渡部恵子さん:
「原発が危ないから、爆発するから逃げろ」って話になって、それからクモの子散らすように人がいなくなって。うちのお父さんも原発で働いていたからね、よくわかってるんだと思うんだけど、「黄色い(原子炉格納容器)ふたはどうなってる?」って(夫が)言っていたのは覚えている

この日の午後、福島第1原発1号機が爆発。

市内の中学校に避難したあとも、3号機、4号機が爆発する。

渡部恵子さん:
まさかっていう感じだよね、みんなそうだよね、何でっていう感じで。「(原発は)安全だ」って言われていたんだから

全てを残したまま、約1,000km離れた広島へ

震災の4日後、渡部さんは約1,000km離れた次男が住む広島へ行くことに。

自宅に寄ることができず、貴重品や長年自宅で可愛がっていた猫も連れていくことができなかった。

広島に到着後、坂町が県営住宅の入居者を募集していたことを知り、4月から住むことになった。

渡部恵子さん:
(入居して初めて食べたものは?)カップラーメン。おいしかった。あの味は忘れられない。気兼ねしないで食べられるっていうのがあったかな

避難から4カ月後の2011年7月。

自宅近くのお好み焼き店で働き始めた渡部さん。

広島に避難するまで、広島風お好み焼きを焼いた経験はなく、慣れるまで苦労したが、何かに打ち込む毎日はどこかやりがいもあった。

渡部恵子さん:
皆さんで輪を、あったかい輪を作っていきたいなって思っています。お好み焼きでもなんでも

いつか福島に戻れると信じながら、見知らぬ土地に慣れようと必死に生きる姿がそこにあった。

震災から約1年8カ月が経過した2012年11月に、渡部さんが家族と一緒に一時帰宅した時に撮影した映像。

渡部さんによると、自宅の空間線量は1時間あたり6マイクロシーベルト。
これは年間に換算すると、避難指示の基準にあたる20ミリシーベルトを大きく超える数値だった。

広島に福島の放射能を持ち込むわけにはいかない。自宅から貴重品と写真しか持ち出すことはできなかった。

また、可愛がっていた猫「ナナ」を探したが、見つけることはできなかった。

「原発事故さえなければ」。
この時、渡部さん夫婦は故郷に二度と住めないと覚悟した。

震災から5年後、渡部さんは自宅を取り壊すことを決意。

日々、「福島に帰りたい」とつぶやいていた夫・洋行さん。
次第に部屋にこもる時間が増え、認知症も悪化。

2020年3月、病気で亡くなった、76歳だった。

渡部恵子さん:
辛かったね、(福島)にいたらいろんなところに連れていけたのに。みんなと色んな話をしたかったんじゃないかな、お酒を飲んだり。ドクターストップかからなければ、福島の復興住宅を探して、そこに行っていたかもしれない

震災から10年、町の一部の避難指示は解除され、人は戻りつつある。

しかし、浪江町の人口は震災前のわずか7%。

戻りたくても戻れないのに、「事故を起こした東京電力からお金をもらえてうらやましい」、「戻りたいなら早く帰ればいいのに」と、被災地の現状を知らない心無い言葉が渡部さんを苦しめる。

浪江町での避難の体験を「絵おと芝居」で伝えていく

2月、渡部さんは広島市安芸区の公民館にいた。

同じ浪江町で被災し、避難の体験を綴った手記を基に作られた「絵おと芝居」の練習会。

登場人物のセリフは全て浪江町の方言「浪江弁」。
1人ひとり、渡部さんからイントネーションやアクセントの指導を受ける。

3月21日の上演に向け、この日の練習は2時間行われた。

参加者:
書いた言葉と実際に喋る言葉は全然違いますので、そういった意味では難しかったですね
皆さんが震災を思い出してもらえたらという気持ちで頑張ります

渡部さんも指導に手ごたえを感じたもよう。

渡部恵子さん:
あの頃を思い出すよね。経験した内容がまるっきり同じだからね、語尾がねいろいろあるのよ、上げたり下がったりが。あれが少し難しいかもしれない、わたしらはずっと子どものころから使っているから慣れてるけど

11日で、東日本大震災から10年。

ここ広島でも地震が発生した時間、多くの人が犠牲者を悼んだ。

2020年に亡くなった最愛の夫・洋行さんの遺骨は、広島市内の寺に納められた。

渡部恵子さん:
東京電力の福島第1原発の爆発だよね。「安全だ」、「安全だ」って言われてきたからね。苦労して家を建てて、そこに住めなくなったわけだからね、追い出されたと同じだよね、もうこんな思いをするのはわたしらだけで十分です」

渡部恵子さん:
波の音、この潮の匂い、浪江の海もそうだったんだなと思って、帰りたいね。山見て、海見て、色んなことを忘れたい。忘れるために帰りたい。新たにまた一歩を踏み出したいな

(テレビ新広島) ​