東日本大震災からまもなく10年。震災直後、避難所で出会った両親を亡くした幼い兄弟の今を追った。
津波で両親を亡くした兄弟
岩手・陸前高田市内にある体育館で、軽快にラケットを振る、高校2年生の及川晴翔(はると)さん(16)。
晴翔さんは、津波で両親を亡くした、いわゆる「震災孤児」だ。
今は、祖母・五百子さん(78歳)と2人で暮らしている。
2つ上の兄・佳紀(よしき)さんは2020年、作業療法士を目指して専門学校に進学し、仙台に移った。
両親は東日本大震災のあの日、家から避難する途中に津波に飲まれ、亡くなった。
唯一といえる形見が、小学2年生から使い続けている筆箱。
及川晴翔さん(16):
お母さんがお兄ちゃんに買ってくれた筆箱を、俺がおさがりでもらったって感じです。お守りみたいな感じになっています。
初めて晴翔さんに出会ったのは、2011年の避難所だった。
当時、小学校1年生だった晴翔さんは、兄・佳紀さんと救援物資を配るなど、率先して何でも手伝う姿が印象的だった。
当時、両親が行方不明だったにも関わらず、明るく振る舞う兄弟。
そこには、こんな“思い”が隠されていた。
兄・佳紀さん(当時9歳):
(両親は)来てくれると思う。頑張っていたら。
「目立っていれば、両親が見つけてくれるはず」
そう信じて、兄弟で耐えていたのだ。
そんな2人を見守る祖母・五百子さんは涙をこらえることができず…
祖母・五百子さん(当時68歳):
元気で頑張っているからよろしいです・・・すみません・・・
しかし、願いは届かず・・・
約1カ月後、父親の遺体が発見された。
その後。晴翔さんの様子にある変化が・・・
徐々に周りと距離を置くように、ひとりで過ごすことが増えていったのだ。
今だから言える「受け入れられなかった」
あの頃、何を思っていたのか?
10年経って、ようやく重い口を開いてくれた。
及川晴翔さん(16歳):
当時まだ小さかったので、自分の両親がいなくなったというのを受け入れられないというか、頭の中が真っ白みたいな感じだった。
東日本大震災で親を亡くした子どもは1800人(2021年3月1日時点)。
あしなが育英会によると、子どもが死を理解できるようになるのは、10歳前後だという。
親の死を自覚した子どもは、そこからさらに深い悲しみと向き合わなければいけなくなる。
及川晴翔さん(16歳):
(親の死を自覚したのは)小学3年生くらい。学校行って帰ってきていないんだなと。寂しかったです。
そんな晴翔さんを見守ってきた人が、当時、兄弟のすぐそばで避難所生活を送っていた、菅野浩子さん(当時68歳)。
常に気に掛けていたのは、晴翔さんの心の状態だった。
菅野浩子さん(当時68歳):
(精神科の)先生にも相談したことがあって。テンションが高いのがいいのかなとか。ちょっと心配しています。
10年たった今でも、案じる思いは変わらない。
菅野浩子さん(78歳):
これが好きなんですよ。
菅野さんは、兄弟の写真や新聞記事を今でも大切に保管していた。
菅野浩子さん(78歳):
すごくかわいかった。本当に無邪気で。明るく動いてくれたから、逆にその声に癒やされた。
一方で、複雑な思いも抱いていた。
菅野浩子さん(78歳):
両親のこと言えなかったし、この子たちも言わなかった。耐えていたんだと思う。
震災から10年の再会。繋がる絆
2021年2月、徐々に疎遠になっていた晴翔さんに、久しぶりに会うことができた。
及川晴翔さん(16歳):
こんにちは。
菅野浩子さん(78歳):
こんなに大きくなったの?びっくり!顔は変わってないよね、輪郭というか。
及川晴翔さん(16歳):
全然変わってないと思う。自分でもそう思う。
晴翔さんの笑顔に、菅野さんは思わず、ずっと伝えられずにいた気持ちを伝えた。
菅野浩子さん(78歳):
晴翔くんの気持ちの中に入り込めなくて何も言えなかったけど、何か言いたいことがあったらいつでも来てください。
及川晴翔さん(16歳):
分かりました。
時を経ても、絆は繋がっていた。
及川晴翔さん(16歳):
大変な10年だったけど、その分いろんな方に支援してもらったし、感謝してきた10年でもあります。
あの日の子どもたち。今、未来に向かって懸命に生きている。
(「イット!」3月8日放送分より)