娘を失った父が「語り部」に

東北で最大の川・北上川のすぐ近くにある、宮城県石巻市立大川小学校。
2011年3月11日、児童74人、教職員10人が津波の犠牲となった

「大川伝承の会」鈴木典行共同代表:
ここに来た津波は3時37分。
1個の時計なら怪しいけども2個同じ時間で止まってます。
ということは、3時37分にこの学校を津波が襲ったということで間違いないかなと。
そのちょうど2時間後です、この写真は

「語り部」を行っている「大川伝承の会」共同代表の鈴木典行さん。
この学校で、当時小学6年生だった娘・真衣さんを亡くした。

「大川伝承の会」鈴木典行共同代表:
この学校はどうかというと、「ここに居れば大丈夫なんだ」「ここには津波来ないんだ」、そういった考えから50cm、1mも高いところに逃げなかった。
避難しないまま、多くの子供、先生方が犠牲になってしまったんです

学校の近くには山や高台があったが、児童たちはそこに避難することなく津波にのみこまれた。
裁判でも、大川小の危機管理マニュアルの「不備」を指摘している。

今も残る震災の爪痕。
津波の脅威を物語っている。

「大川伝承の会」佐藤敏郎共同代表;
私は、いつもここで考えます。
うちの娘はどんな顔してここから(学校から)出てきたのかなって。
きっとおびえていたと思います

鈴木さんとともに、「大川伝承の会」の共同代表を務めている、佐藤敏郎さん。
当時、小学校6年生だった娘・みずほさんを亡くした。

悲劇を繰り返さないため、震災を風化させないため、あの日のことを語り続ける2人。
その目的は「未来の命を守る」こと。

「大川伝承の会」佐藤敏郎共同代表:
防災は助かるんです。防災はハッピーエンドです。
そのハッピーエンドのために、私たちの体験や私たちの子供たちが何かの役に立てばと思っています

卒業生が語る、震災前の大川小のすがた

今回で26回目となったこの「語り部ガイド」。
児童の遺族が中心となっていた「語り部」に、地域住民や卒業生も参加するようになった。
その一人、永沼悠斗さん(25)。

永沼悠斗さん;
この中庭にはすごく思い出があって、小学校1年生から6年生まで大川の小学生は一輪車に乗れるんですね。
台数はそんなに多くないんで、長いお昼休みとかは争奪戦になるんですけど、小学校6年生が1年生に教える、5年生が2年生に教えるとか。先生に教えなさいとか言われるのではなく、自分たちから教えてあげるよって言って。ここが交流のスペースです

大川小学校卒業生の永沼さんは、当時小学2年生だった弟を亡くした。
悲しみの中にいた永沼さんが、「語り部」に参加するようになった訳。
変わり果てた校舎だが、震災前、確かにそこに楽しかった学校生活があったこと。
低学年から高学年まで、みんなが仲が良かった学校だったこと。
このことを伝え、未来への備えの必要性を訴えていきたい…そんな思いを抱いたからだと言う。

永沼悠斗さん;
皆さんは、「(自分の)母校は残っている」、そういう思いでいると思いますが、突然災害で無くなります。
だから、日常で災害に備えてもらうというのが、校舎と自分が一番伝えたいメッセージ

この日参加したのは、県内外から約200人。

参加者(和歌山から);
うちらも和歌山ですから、南海トラフ巨大地震があると思いますんで、いろいろ勉強してますけども、すごいいいお話聞かせてもらってよかったです。
とにかく逃げないといけないということですね

参加者[家族3人](東京から);
こういうところに来ると、日ごろ備えて、学校だけじゃなくて、学校と地域と保護者とみんなが一緒になって対策を取ることが大切だと痛感します

未来の命を守るため」そして「未来への備え」。
震災から8年半。
遺族、若者、地域住民が、垣根を超えて震災を語り継いでいる。

「大川伝承の会」鈴木典行共同代表:
これからの未来の中で子供たちが亡くなること、そんなことが絶対あっちゃいけないと

「大川伝承の会」佐藤敏郎共同代表;
ここはとても悲しいことがあって、悲惨でみじめでかわいそうって言われます。
確かにその通りの場所だと思います。
でも、ここから未来をひらくことが1個でいいんですよ、1ミリでもいい、何かを生み出すことができれば。
みなさんが家に帰って、大川小に行ってきた。「どんな場所だった?」って聞かれたら、「あそこは未来をひらく場所なんだ。なんかおじさんが言ってた」でもいいです。
そっから何かが広がるかもしれない

(仙台放送)