スローガンは「No Charity but a Chance」

中村さんが「太陽の家」を立ち上げた際のスローガンは、「No Charity but a Chance〜保護より(雇用)機会を」だった。

しかし当時、社会は障がい者雇用に冷たく、中村さんはさまざまな企業を訪ね歩いたものの、ほとんど断られたという。

中村さんが途方に暮れたときに、一緒にやりましょうと声をかけたのがオムロン(当時、立石電機)の創業者、立石氏だった。障がい者の社会進出に以前から関心のあった立石氏は、このとき「私はあなたたちを障がい者として扱わないし、下請けとして仕事を与えるようなこともしない」と語り、共同出資会社にすることを提案したという。

着実に広がる、障がい者雇用の場

先月別府で行われた中村さんを語るシンポジウムでは、太陽の家の設立当時のメンバーが、当時のことを振り返った。

吉松時義さんは、オムロンとの共同出資会社(オムロン太陽)の初代工場長で、いまは日本パラ陸上競技連盟会長を務めている。

吉松さんは20歳の時にバイクの事故で脊髄を損傷、4年間の病院生活を送っていたが、自分で働き自立したいと考え太陽の家に入所した。

「中村先生は、『単なる同情や保護では障がい者のためにならない。自ら働き生活をし、納税者の立場になり、社会人の誇りを持ってこそ真の幸せだ』と考えていました」

そして、ある日中村さんから初代の工場長をやれと言われた。

「仕事をすることが最高の喜びでしたから、じゃあやりましょうと引き受けました」

オムロンとの共同出資会社が軌道に乗ると、ソニーやホンダ、三菱商事など日本を代表する企業とも次々と共同出資会社を作り、障がい者の雇用の場は着々と広がった。

政治の世界にも変革をもたらす

同じく設立当初を知っている吉永栄治さんは、日本で初めての車いすの市議会議員だ。

「太陽の家が出来たころは、私は長崎で闘病生活を送り、家の中で『座敷牢』のような毎日を過ごしていました。そんなとき、いろいろな施設からパンフレットを取り寄せてみると、太陽の家には『太陽の家に働くものは被保護者ではなく労働者である』と書いてある。その言葉に魅かれ、別府に来ました」

太陽の家に入所して数年たったある日、吉永さんは中村さんから驚くようなことを言われた。

「選挙に出ないか、と言われました(笑)。私は資質もお金もないですと断ったのですが、先生は『社会を変えるためには、障がい者が何を求めているのか伝えなければいけない。そのためには選挙が最も有効だ』と強硬に説得されました」

そして、吉永さんは1975年、別府市の市議会選挙に立候補した。当時障がい者が選挙に出るのは珍しく、女優の宮城まりこさんが選挙応援に駆けつけるなどマスコミでも話題になったという。まさに、中村さんの狙い通りだ。

日本で初めての「車いすの選挙戦」となったが、吉永さんは「バスケットで体を鍛えていたから、選挙に耐えられた」という。

中村さんは政治の世界でも、大きな変革を起こしたといえる。

一家に一台、コンピューターの時代を見据え

現在、太陽の家の副理事長を務めている山下達夫さんに話を聞いた。

山下さんは1歳の時に脊髄性の小児麻痺となり、車いすで片手が動かない障がいを持つ。そのため、1977年に太陽の家に入所した後も、工場でのモノづくりに参加できなかった。

しかし、中村さんからこう言われたという。

「これから一家に一台コンピューターの時代が来る。そうすれば自宅で働くことができる。手足にハンディがあっても頭脳労働なら問題ない」

山下さんはシステム開発を任され、いまは三菱商事との合弁会社「三菱商事太陽」で会長を務めている。

「結婚もでき、いま娘2人と孫もいる。中村先生が重度障害も社会復帰し、納税者になれと励ましてくれたおかげだ」

4年後、2020年に向けて、今。

太陽の家はいま、別府だけでなく京都や愛知にも事業所を設け、健常者を含む1800人以上が在籍している。

さらに、オムロン、ホンダ、富士通、ソニー、デンソーと共同出資会社も設立し、障がい者の雇用に大きな貢献をしている。

太陽の家の設立から半世紀たったいま、障がい者雇用の環境整備も進んだ。

しかし山下さんは、ここにとどまらない。

「中村イズムをつなげていきたい。これからは発達障害についても社会復帰を進めていきたい」



今年のリオデジャネイロパラリンピックでは、日本から130人以上の選手が参加、24個のメダルを獲得した。

参加したのは160以上の国と地域、そして選手数は約4350人と過去最高だ。

1964年、東京パラリンピックで中村さんが率いた日本人選手は53人、参加国は22か国、全選手で375人だったのに比べると隔世の感がある。

 
 
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2020年東京五輪まであと4年足らず。

日本のパラリンピック、障がい者の社会参加の原点に、中村裕という稀代のチェンジメーカーがいたことを忘れてはならない。

「写真提供:社会福祉法人太陽の家」

鈴木款
鈴木款

政治経済を中心に教育問題などを担当。「現場第一」を信条に、取材に赴き、地上波で伝えきれない解説報道を目指します。著書「日本のパラリンピックを創った男 中村裕」「小泉進次郎 日本の未来をつくる言葉」、「日経電子版の読みかた」、編著「2020教育改革のキモ」。趣味はマラソン、ウインドサーフィン。2017年サハラ砂漠マラソン(全長250キロ)走破。2020年早稲田大学院スポーツ科学研究科卒業。
フジテレビ報道局解説委員。1961年北海道生まれ、早稲田大学卒業後、農林中央金庫に入庫しニューヨーク支店などを経て1992年フジテレビ入社。営業局、政治部、ニューヨーク支局長、経済部長を経て現職。iU情報経営イノベーション専門職大学客員教授。映画倫理機構(映倫)年少者映画審議会委員。はこだて観光大使。映画配給会社アドバイザー。