「国が良くなれば地方も良くなる。地方が良くなれば日本が良くなる」。40年にわたる政治家人生で、綿貫民輔氏は繰り返し語ってきた。南砺市井波に生まれ、神職、実業家、そして政治家として歩んだ。富山テレビが取材した膨大な映像と、関係者の証言から99年の生涯を振り返る。

平成2年、建設大臣としてのお国入りで語った決意


平成2年、故郷の井波町は手に日の丸の小旗を持った人でごった返した。やってきた車列の窓から顔を見せたのは、就任したばかりの綿貫民輔建設相だ。就任後初の「お国入り」。握手を求める人々に、笑顔で応える。
実家の井波八幡宮は人、人、ひと・・・。集まった人々を前に、綿貫氏は決意を語った。
「故郷を考えながら日本を考え、日本を考えながら故郷を考える。この哲学のもとに、日本国土の建設のために全力を捧げたい」


会場から「綿貫建設大臣、万歳」の声が上がった。「ふるさと、そして日本」。この言葉は、40年の政治家人生で何度も口にしてきたものである。
道路や基盤の整備で地方に活力を

東京への一極集中が進む一方で、活力を失っていた地方。綿貫氏は、道路や基盤の整備に取り組んだ。建設相就任時の富山テレビのインタビューに「日本の国が良くなればふるさとが良くなり、ふるさとが良くなれば日本が良くなる、という政治でなければならない」と思いを語っている。
6歳で宮司代理に 「民輔」の名前にまつわる秘話

綿貫民輔氏は昭和2年、井波町(現・南砺市井波地区)で生まれた。生まれたときの姓は「南」。父の南佐民(すけたみ)氏は淡路島の出身で、庄川でダム建設の責任者を務めていた。佐民氏はのちに砺波運輸を創設。県議会議員、衆議院議員も務め、実業家と政治家、二つの顔を持つ人物だった。


民輔(たみすけ)の名は、父の「佐民(すけたみ)」を入れ替えたもの。「佐」も「輔」も助けるという意味があり、「民衆を助ける人物に」との思いが込められている。
母・かずさんの旧姓は綿貫。綿貫家は、代々、井波八幡宮の宮司を務めていた。ところが後継ぎが急死したため、父の佐民が綿貫家を継ぐことになり、苗字は南から綿貫に変わった。民輔少年が6歳の時だ。

民輔少年は6歳で井波八幡宮の宮司代理となり、忙しい父に代わり、各地の祭りで神事を行う事もあった。民輔少年が登場すると、地域の人は「若さん、若さん」と喜んだ。そして、その頃からお神酒を口にしていたという逸話も残っている。
父の死、そして「政治家になってはならない」
慶應大学を卒業した民輔は鐘紡に入社する。だが23歳のとき、大きな転機が訪れた。父・佐民の死である。

衆議院議員に2回当選しながら、戦後の公職追放にあった父は、息子に「絶対に政治家になってはならない」と言い残したという。のちに政治家となる綿貫にとって、重い言葉だったに違いない。
26歳で、父が創設した砺波運輸に入社。社史は、昭和30年の綿貫民輔社長就任を近代化のスタートと記している。
雨漏りの本社から東証一部上場へ 経営者としての判断とは

孫の綿貫雄介さんは、金融機関を経てトナミ運輸に移り、現在は常務取締役を務める。雄介さんは祖父の入社当時をこう聞いている。

「祖父が入社して間もない頃は、あまり経営がよくなくて、本社も雨漏りをしているような状態だったそうです。そこから業績を改善させて、大きく発展させたと聞いています」
綿貫民輔社長が打ち出した経営改善策は多岐にわたる。
- 株式の店頭公開
- 東京進出
- 社名のカタカナへの変更
- 物流の高度化に合わせたコンピューターの導入

昭和46年の全管理職会議では、会社経営について次のように語っている。
「経営というものは、常に現実の会社の姿と、併せて将来の会社のあるべき姿を想定し、方向を決定しなければならない」とした上で、さらに、不況を脱し景気回復を待ってコンピューターを導入する方法もあるとしながら、「導入企業と未導入企業との企業間格差拡大も十分考えなくてはならない」と述べた。目先の景気に左右されず、先を見据える姿勢がうかがえる。

社長、社主として16年にわたり経営にあたり、トナミ運輸はその後、東証一部に上場した。
「相手に感動を与えろ」綿貫流ビジネスの心得と 「綿貫家の酒の飲み方」とは

ビジネスマンとしての綿貫氏を知る人物が、インテック元会長の中尾哲雄さんである。長く綿貫氏と交流があった。

中尾さんは、東京の大きな会社へ一緒に営業に行ってもらったという。そのとき、よく言われた言葉がある。
「相手の胸を打つ、相手が感動するような人間でないと、トップのいい営業にはなれないよ」
「相手に感動を与えろ」。当初は、感動を与えるとはどういうことかわからなかったと中尾さんは振り返る。その後、自分なりに考えを重ねてきた。そして、こう語る。
「対人ということでは、非常に重要なことを教えていただいた」
また、中尾さんはよく綿貫氏と酒を酌み交わした一人だ。「綿貫さんはお酒が強かった。でも一番驚いたのは、今でいうAIのような、時代の新しいキーワードについて良くご存じだった。いつ勉強しているのかと思ったほどだ。」
綿貫氏について取材をすると、酒にまつわるエピソードを語る人は多い。孫の雄介氏もこんな話を教えてくれた。『祖父に「綿貫家のお酒の飲み方教えてやる」と言われたんです。どうするのかというと、右手に日本酒を持って、左手に水を持つ。これを交互に飲んでずっと繰り返すんだ、という話をしてもらいましたね。その時には、お酒の肴として、脂質の低いものを食べれば、二日酔いはなくなると』
時には酒を親しく酌み交わす事で、綿貫は会社の内外で人との絆を深めていく。そして父が禁じた政治家への道を踏み出すことになる。
その2に続く
本稿は富山テレビ制作の「綿貫民輔の遺言」(2026年11月7日放送)を再構成したものです。
(富山テレビ放送)

