出会うことなく戦死した父に毎年思いを馳せる佐賀市の女性。

「お父さんに抱っこされたかった」。
戦地から届いた父からのはがきには、家族への思いが残されていました。

【中山邦子さん】
「お父さんって言って抱っこされたかったなっていう思いはね。ずっとありましたけどもね」

佐賀市の中山邦子さん82歳。
父親の経信さんを戦争で亡くしました。
戦地から届いたはがきには、遠く離れた家族への愛がつづられています。
「安産か、男か女か」「歌が聞きたい」「さよなら」経信さんは現在の鳥栖市に生まれ九州帝国大学に入学。卒業後は助教授として、研究者の道に進んでいました。
そんな中、終戦1年前の1944年、春。
36歳のときに軍の召集を受けます。

向かったのはのちに激戦地となる小笠原諸島の硫黄島でした。
母・正子さん、当時5歳の長男・卓也さん、1歳の長女・洋子さんは佐賀の実家に帰り父親の帰りを待つことに。
正子さんのお腹にはまもなく生まれる3人目の命も。
「元気で働いていますからご安心くださいませ」
「タクヤヨウコトナカヨクアソビナサイヨトウチャン」
当時、兵士とその家族を繋いでいたのが「軍事郵便」。
はがきに押されたスタンプは、内容をチェックする検閲が行われた印です。

【中山邦子さん】
「本当のことはやっぱり書けなかったんだなっていうのねきつかったろうなって思いますよ。
生きるか死ぬか分からないようなね。
その戦場でさ、立場だったのに。
よくこういう気遣いをしてくれたなあと本当に優しい父だったんだなと思います」

同年、7月28日。
戦時中のさなか生まれたのが邦子さんです。
お腹にいたわが子の誕生を経信さんは誰よりも待ち望んでいました。
「邦子の顔が見たい」「邦子の写真ができたらお送りください」召集がもう少し遅ければ…出会えた娘。

【中山邦子さん】
「会いたかったなって思いますし見せたかったなって本当にあと2カ月、3カ月ぐらいで生まれるっていう時だからね。本当に気が気じゃなかったろうし」

邦子さんの記憶に残る母の言葉があります。

【中山邦子さん】
「きつかったろうと思うよ。ねぇ、子供の顔を見せてやりたいと思うやろうしさ。もう母はしょっちゅうね。やっぱり、この戦争さえなかったらね、楽しい生活ができたのにっていうのは、もう口癖のように言ってましたもんね。」

1945年3月17日。
邦子さんの顔を見ることなく父・経信さんは硫黄島で戦死しました。
激戦地硫黄島での戦没者は日本軍2万1900人に対し、アメリカ軍は7000人。
両軍あわせておよそ5万人が死傷しました。
父の死から74年後の2019年、邦子さんたちは兄妹3人で国が主催する硫黄島慰霊巡拝に参加しました。父とのわずかな記憶を持つ兄と父を知らずに育った妹たち、3人一緒に硫黄島を訪れたのは初めてでした。
帰りの飛行機、兄の卓也さんは、妹2人にあるものを見せてくれました。

【中山邦子さん】
「飛行機の中で僕遺言を書いたよって。兄は本当にどうにかして父に会いたい。どうすれば父に会えるだろうか。それを一生懸命書いているんですね」

硫黄島から帰ってこない父の遺骨。兄は父に会うため自分が亡くなった時は海に散骨してほしい。そうすれば硫黄島に眠る父に会いに行けると妹たちに伝えたといいます。

【中山邦子さん】
「お父さんのことお父さんのことってそんなに話はあんまりしなかったけども、それを見てね、ああ、こんなにお父さんに会いたがっているんだなっていうのをね本当にもうしみじみと思いました。
80年、100年経ってもまだね、心から消えることはないっていう思いはね残るからね。
本当戦争は、戦争は本当、むごいことだなって思います」

戦後81年。
経信さんが戦前に植えたサザンカは今も毎年、お墓の前できれいな花を咲かせています。
娘の邦子さんは、「花を見て元気を出せ、とお父さんが応援してくれている」と話しているということです。

サガテレビ
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