長崎の爆心地から60km以上離れた佐賀からも原爆投下は目撃されていた。キノコ雲は「柿色で薄い色」だったという100歳の女性。「思い出したくない。話すのは最後」と語る女性の表情が戦争の罪深さを物語る。

B29におびえながら軍服工場へ

佐賀市川副町に住む實松ミサヲさん(100)。太平洋戦争開戦から約2年後の昭和18年(1943年)まで洋裁学校に通っていたが、徐々に戦争に巻き込まれていく。

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日本は物量で勝る連合国に押され、食料や物資が不足。このため實松さんも学校どころではなくなり、終戦の1年前から佐賀市の軍服工場で働くことになった。

實松さんは、日本本土を空爆していた爆撃機B29におびえながら防空頭巾をかぶって工場に通っていた。B29が飛行する姿を度々目にしたという。

物資不足も…将校の服は“純毛”

工場では、当時としては貴重な”純毛”が素材として使われていた。当時、食料や衣類、生活必需品については“軍が優先”されていたのだ。純毛の将校服を縫っていた實松さんは、物資が不足する中、「将校はこんなに良い服を着なければならないのか」と疑問に感じたという。

その後、昭和20年(1945年)半ばには、アメリカ軍の日本本土への空襲が激化。工場は閉鎖され、實松さんは自宅で過ごすことになる。

工場が閉鎖されてから生活は酷くなったと實松さんはいう。堤防の下に父親が掘ってくれた防空壕にゴザを敷いて隠れる日々が続く。

機銃掃射の弾が井戸の脇に

アメリカ軍は爆撃の他、民間施設にも攻撃を加えるいわゆる機銃掃射を頻繁に行っていた。

機銃掃射を間近で感じたことを實松さんは今も鮮明に覚えている。

實松ミサオさん:
チューンという音がしたから(防空壕の中で)なんだろう?と思った。そしたら後で井戸のあるところの脇に(弾が)落ちていたんですよ。びっくりして足の震えが止まらなかった。弾を見て、これが飛んできたと思って

キノコ雲は「柿色の薄い色」

そしてある夏の日、いつもと違う光景を目にする。「きょうの爆弾は違う。あれは」と實松さんの父親が言った日のことだ。

昭和20年(1945年)8月9日、アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下。その年末までに7万3000人余りの命が失われたとされている。

爆心地から60km以上離れた實松さんの自宅でも原爆のいわゆる”キノコ雲”が見えたという。その時の光景を實松さんは次のように語った。

實松ミサオさん:
柿色の薄いような色で“きれいかった”です。モクモク雲じゃない“きわー”としていた。それが、すだれのように落ちていくのが見えました。それだけは、ほんと頭に残っています

長崎への原爆投下後、空襲は収まり6日後に終戦を迎える。

實松ミサオさん:
ほっとしたじゃないです。もぬけの殻です。馬鹿なことだと思うんです。この戦争というのは

「思い出したくない…話すのも最後」

戦時中は将校のために軍服を作っていた實松さん。終戦後は家族のために服を作るようになった。

11人のひ孫にめぐまれた實松さんだが、家族に戦争体験を話したことはほぼないという。

實松ミサオさん:
思い出したくない。あまり言いたくないです。もうこれで話すのも最後です。ほんとにもうあんなことは嫌だと思います。“戦争だけは絶対にやったらいかん”と思います

(サガテレビ)

サガテレビ
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