1959年6月30日、米軍の戦闘機が住宅街に墜落し、児童ら18人が命を落とした沖縄県うるま市の宮森小学校ジェット機墜落事故。近年になって、事故の記憶を継承してきた「石川・宮森六三〇会」のもとに、当時のことを知らない若い世代が学びを求めて訪れている。
悲劇を二度と繰り返さないために、国境や世代を超えて動き出した若者たちと、彼らに希望を託す語り部たちの姿を追った。
アメリカ人ジャーナリストが見つめる宮森
「戦後の沖縄について調査する中で、多くの悲劇的な事故について読みました」

事故の記憶を語り継ぐ石川・宮森六三〇会に一通のメールが届いた。送信者は沖縄の歴史と米軍について調べているアメリカ人ジャーナリストのジャック・マクドナルドさんからだった。
6月30日に執り行われる慰霊祭に参列したいという申し出を受け、六三〇会の久高政治会長は事故の詳細を伝えるため、当時の状況について語った。

「私は当時小学校5年生。教室が燃えている、住居地域が燃えている、ケガした人が逃げまどっている。木の下に置かれていた亡くなった人たちを、子どもたちが見ていた」
ジャックさんが沖縄を訪れたのは、米兵だった祖父が戦後に持ち帰った沖縄の人の写真アルバムを祖母が返還したことがきっかけだった。自身の取材・発信のため来沖したという。

ジャックさんの「このような事故がまだ起こりうる、あるいは起こりやすいと心配していますか?」という問いかけに対し、久高会長は「今でもジェット戦闘機の爆音が私たちの日常の生活の中にある。いつ落ちてもおかしくない」と答えた。

4時間近くの対話を終え、ジャックさんは取材の意義を噛み締めるように言葉を紡いだ。
「当時そこにいた人々と、そして今も恐怖の中で暮らし、同じような状況に直面している次世代とともにいること。それを体験するために沖縄に来ることは重要だったと思います」
東京に住んで感じた「沖縄の空の異常さ」

うるま市出身で現在は就職のため東京都で暮らしている平安名流華さんは、宮森小学校ジェット機墜落事故を伝えるための写真展を東京で開催しようと、六三〇会の伊波洋正さんを訪ねた。
地元の歴史でありながら、平安名さん自身も当初は事故について詳しくはなかった。

「うるま市出身なので『宮森小学校ジェット機墜落事故』という言葉は知っていたけど、中身は全然知らなかったんです。どんな人たちが犠牲になったのかということも全然考えきれてなかったので」
そんな平安名さんが自ら写真展を企画した最大のきっかけは、地元を離れたことで初めて知った「沖縄の空の異常さ」だった。
「東京で暮らして、沖縄って異常だったんだっていうことに気づき始めて。(うるま市は)今も基地が近くにあって、当たり前のように戦闘機が上空を飛んでいる。去年、宮森小学校に隣接する施設で開かれた写真展を見た時、沖縄だけでなく県外でもこの事故について知ってほしいと感じました。実際に宜野湾でもヘリの部品が落ちていたりするじゃないですか。何も変わってない、地続きだとすごく感じていますね」

平安名さんは東京にいる県出身者に声をかけて着々と準備を進めながら、「自身が当事者ではない」という立場に対する葛藤にも対峙し続けた。
「自分は(事故を)経験はしてないので、代弁をしないように気をつけたいなと思っていて。できるだけ写真や証言集を中心に、それらが語っているという構成にしたいんです」
体験者がいなくなった後をどう生きるか――継承という課題

悲劇の風化に向き合ってきた六三〇会のメンバーにとって、自発的に動き出した若者たちの存在は大きな希望だ。伊波さんは平安名さんの行動を見つめ、感謝を口にする。
「体験した僕らはこれまで語ってきてはいるんだけど、いなくなった後はどうなるのか。事故を体験していない人たちがどう語り継いでいくのかは大きな課題。沖縄の問題をぜひとも考えてほしいと思っているので、やろうとしてることには本当に頭が下がる」

平安名さんは自分の取り組みの意義について「沖縄をあまり知らない、沖縄に観光地としてのイメージしか持ってないような若い世代や学生の皆さんに届いてほしいと思います」と話した。
風化させないため、同じような痛みを二度と生み出さないために、時代と場所を超えて宮森の記憶を繋ぎ、共有していくために何ができるのか。今を生きる私たちに託されている。

