1992年の首里城の復元に携わった、漆芸家の前田孝允さん。
2019年10月の火災を目の当たりにし、再建に意欲を見せていたが2020年1月、病気で急逝した。
2人3脚で歩んできた同じく漆芸家の妻・栄さんは、最愛の夫の死に胸を痛めながらも、その遺志を継ごうと前向きに日々を過ごす。

ほとんど資料が無い…首里城を再現した夫婦

故・前田孝允氏:(生前のインタビュー)
琉球漆器は世界的に素晴らしいと言われていた。昭和になると完全に技術が途絶えていたので手探りで

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大宜味村出身の漆芸家で、沖縄県指定の無形文化財保持者にも認定された前田孝允さん。
1992年の首里城の復元では、正殿の柱に天に上る龍の文様「金龍五色之雲」を描き、沈金・螺鈿細工を施した国王の椅子・玉座などを制作した。

故・前田孝允氏:(生前のインタビュー)
政(まつりごと)の主な道具・玉座など、重要なものが漆器でつくられていた。漆と首里城正殿の関わりは深い

前田孝允さんの妻・栄さんは、夫と共に首里城復元に携わった。

妻・前田栄さん:
「1人ではできないから、一緒に首里城をつくっていきたい」と言われた。これがプロポーズだったと主人は言っていたが、私はプロポーズだと思っていなかった

きらびやかな装飾が施された柱や豪華絢爛な玉座は、まさに王朝文化の象徴。

妻・前田栄さん:
主人が言葉で「雲に全体を巻き付けて龍が舞っているようにする。雲を張り付ける」と言ったら、私がデザインを描いていく。生み出していくのは主人で、仕上げていくのが私でした

どのような造りだったのかを示す史料がほどんど存在しない中、手がかりを求めて県の内外を視察。
試行錯誤を繰り返し、絵柄や色を決め、時に1日2~3時間の睡眠で“栄華を誇った歴史”を甦らせた。

妻・前田栄さん:
この重大な仕事を私に手伝うことはできるかしら?主人は「お前だからできる」と言う。そのために一緒になったような2人。完成のあかつきの華麗な姿を夢見て頑張るしかない

首里城を“赤瓦の蓋をした巨大な漆器”と誇りにし、特別な想いを抱いていた。

妻・前田栄さん:
2人に子どもはいないけど、首里城は私たちが生み出した子ども。「自分たちは他界するが、500年も1000年も持つし、すごい幸せな存在だ」といつも話していたのに…それが一気に燃えて全部なくなってしまった

首里城の火災当日から再建を決断

首里城が焼け落ちたあの日、栄さんは入院していた夫の病院を訪れた。

妻・前田栄さん:
たくさんの人がいる前で抱き着いて大泣き。男泣きでワーワー泣いた。「なぜ私を見たら大泣きしたの?」と聞いたら「この想いを知って語れるのは栄しかいない。誰とも涙の会話はできない」と。翌日からはガラッと人間が変わったように、「このデザインを持ってきて。ここを直す。図面を持ってきて」って。病棟に持って行って全部チェックして、指導してもらっていた

今回、貴重な資料を見せて頂いた。
前田さん夫妻が心血を注いで作り上げた螺鈿玉座の図面。

一緒に玉座を手掛けた栄さんだが、図面があったことは首里城が焼失するまで知らなかったという。

首里城正殿の柱に描かれた上り龍、「金龍五色之雲」の下絵も見せて頂いた。

妻・前田栄さん:
これを病院で広げていた。大きいテーブルで。天国に行く前の日までそういうことをさせられた。「弱い(薄くなっている)ところを力加減で(筆を)入れて」と主人に頼まれた。主人の遺言でした

再建に向けて意気込んでいた孝允さんの突然の死は、青天の霹靂だった。

妻・前田栄さん:
首里城も燃えて、主人も天国に行ったので苦しかった。みなさん(記者やカメラマン)がいるから仕事が進む。1人でいると止まる。思い出すから。でもこれも喜びに変えないとね。主人と2人で仕事をしていた時を思い出したら、主人ができなかったことをやっていかないといけないという思いが強くなりました

栄さんは毎朝、首里城周辺のウォーキングを日課にしている。

妻・前田栄さん:
主人が亡くなってからは首里城の再現・復元をいつも考えています。“子ども”です。全部生み出したから

首里城を我が子のように想い、心のよすがにしていた。

妻・前田栄さん:
首里城が愛おしい。くよくよするのではなくて、これを見ながら主人に語りかける。「気にしないで任せてね」と言っています。感謝です。ありがとう

亡き夫の遺志を胸に、在りし日の姿が甦るまで前を向き歩む。

(沖縄テレビ)

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