3月11日で東日本大震災の発生から15年となります。仙台放送では3月2日から震災に関する特集をお伝えします。3日は「移住」に関してです。
震災をきっかけに古里を離れた人もいれば、被災地に移住してきた人も数多くいます。人口減少が加速する中、移住者が地域にもたらしたものを考えます。
仙台市に住む、岡田卓也さん(48歳)。青葉区にある宮城県第二工業高校の教師です。
岡田卓也さん
「いつもと目線と変えた話をしたいと思う」
神戸市出身の岡田さん。この日は生徒たちに自身が高校3年生の時に起きた、阪神淡路大震災の経験を話しました。
岡田卓也さん
「避難所のところで食べ物や飲み物を配ったり、先生だけでなく高校生の生徒会のメンバーもね。手前の子供は被災者の子供たち」
岡田さんは阪神淡路大震災で自宅が被災。当時ボランティアとして活動したことから、東日本大震災の時も自分に何かできるのではと考え、すぐに石巻市に入ったそうです。
岡田卓也さん
「神戸の景色よりも石巻の方が比べるものじゃないけど、ひどいかな、大変っていうのはすごく思った」
被災地でボランティアとして活動した岡田さんですが、震災発生から3年後、宮城県へ移住しました。
きっかけは当時働いていた学校での何気ない会話だったと振り返ります。
岡田卓也さん
「移住も大変な決断だし迷ったんですけど、震災から2年目ぐらいの時に、『春休みにボランティア行く』みたいな話をしたら、『また行くの?』『何しに行くの?』みたいなこと言われて。神戸で皆さんも被災してて、2、3年経つとやっぱりみんな忘れちゃうので。そんなこともあったなぐらいになってしまう。どうしても。僕が移住したら僕の友達は少なくとも岡田、宮城に行ってるな。宮城はまだまだ大変と思ってもらえるというか。忘れないでいてもらえるというか。つながっていてもらえるというか。そういうことを思って移住を考えた」
街の姿を一変させた“あの日”。この15年で確実に復興は進んだ一方、宮城県内の人口は減
少傾向となっています。
震災前の2010年に234万8000人あまりだった人口は、おととし、およそ10万人少ない224万7000人ほどとなりました。
一方で増えているのが“移住者”です。宮城県によりますと、東京圏にある相談窓口を通じて移住してきた人は、10年ほど前と比べ21倍ほどに増加しています。
宮城県によりますと、豊かな自然や穏やかな気候に魅力を感じる人が多いそうです。
渡邊国権さん「全然うまくできない」
4年前、神奈川県から気仙沼市に移住してきた渡邊国権さん(35歳)。現在、空き家を宿泊施設にしようとリノベーションを進めています。
大学生のころ震災ボランティアで気仙沼市を訪れた渡邉さん。その時感じた人の温かさを忘れられず、家族で移住を決意しました。
渡邊国権さん
「ここに帰ってきていいんだ。第二の故郷のような場所にさせてもらって、よそ者の僕を受け入れてくれた懐の深さを気仙沼市に感じていて、自分自身もそういう大人でありたいなと思えたのが大きい」
一緒に作業を行う気仙沼市出身の熊谷俊輔さん(49歳)。地元の観光業に関わる仕事柄、震災後、移住してきた人たちと数多く接してきました。その経験から移住の難しさを感じてきたそうです。
熊谷俊輔さん
「正直なところ、やっぱり何年かするとまた別の地域に行っちゃったりとか、ほかのところに移住してというケースが多かった。本当にそこの地域に移住をして、そこでなりわいを見つけて動いていくという人は、本当に多くはないと自分の中で長い流れで感じていたこと。たまたま自分の周りが、そういう人が多かっただけかもしれないけど」
復興へと歩みを進めてきた気仙沼市にとって、移住者はどういう存在だったのでしょうか。
気仙沼市内で移住を支援してきた団体は、地元の人たちにとっても新たなチャレンジをするきっかけになったと話します。
定住センターMINATO 佐藤文香さん
「チャレンジャーが増えたことで、地元の人たちも、もしかしたら自分もできるのかなと一定の刺激になったとすごく感じる」
また、東日本大震災から15年を迎える今だからこそ、被災地ではなくひとつの地方都市として、移住者の存在は大きいと指摘します。
定住センターMINATO 佐藤文香さん
「被災地という感覚よりは、ひとつの地方都市としてどう生きていくかが、気仙沼市も全国もそうだけど、問われていると思っていて、その中で移住者が来るとまちにとって、新しい風が吹くというかこういう生き方をしている人もいると増えることが、まちにとってすごく良い循環が生まれる」
東日本大震災の発生からまもなく15年。地元の人と移住者が手を取り合うことで、まちに、新たな営みを生むのかもしれません。