上皇ご夫妻が生活される仙洞御所とは?

宮内庁は、6月末で仙洞御所の改修工事が終了したと発表しました。

上皇ご夫妻は、4月26日から生活を始められていましたが、これで全てのお引っ越しに伴う改修工事が終わったことになります。

改修の終わっていた公室部分は公開されましたが、仙洞御所とは、一体どのような場所なのかまとめてみました。

現在は上皇ご夫妻が住まわれる「仙洞御所」
現在は上皇ご夫妻が住まわれる「仙洞御所」
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今の仙洞御所は、住まわれた方により、名前が変わってきました。

1960年から1989年までは、上皇ご夫妻が皇太子時代のお住まいだったので「東宮御所」

東宮御所での上皇ご夫妻(当時は皇太子ご夫妻)(1960年)
東宮御所での上皇ご夫妻(当時は皇太子ご夫妻)(1960年)

昭和天皇が亡くなった後、1995年に上皇ご夫妻が皇居の御所に移られるまでは「赤坂御所」に。

天皇陛下が皇太子時代のお住まいとされたときには、再び「東宮御所」

陛下が2019年5月に即位し、皇居の御所に引っ越されるまでは「赤坂御所」

そして2020年、上皇ご夫妻が生活されるようになり「仙洞御所」となりました。

その都度、改修は行われましたが、ほぼ同じ建物で、呼称だけは変わっていったのです。

1960年3月に完成した東宮御所は、赤坂御用地の貞明皇后が住まわれた「赤坂大宮御所」のあった場所に建設されました。

建設中の東宮御所
建設中の東宮御所

建設を請け負ったのは、大林組など7社の共同企業体でした。実は、大手建設会社7社で指名競争入札をしたところ、1万円で落札されます。宮内庁は、さすがにこれはまずいと考え、7社の共同体と随意契約し着工することにしたということです。

基本設計は、谷口吉郎氏。東京国立近代美術館や東京国立博物館東洋館を設計した方で息子の吉生氏も建築家として名をはせています。

この時の資料によれば、公室部分は平屋建て一部地下一階で約1409㎡、事務部分は、地下二階もある約985㎡、職員室や渡り廊下、車庫などが約927㎡あり、私室部分は、約999㎡。合わせて約4320㎡の建物が完成しました。

東宮御所での上皇ご夫妻と陛下(当時は皇太子ご夫妻と浩宮さま)(1960年6月)
東宮御所での上皇ご夫妻と陛下(当時は皇太子ご夫妻と浩宮さま)(1960年6月)

建設省から宮内庁に出向し、後には今の皇居造営にも関わる、小幡祥一郎氏の著作によれば、基本的な企画は「将来日本の象徴となられる方の御殿には外国の賓客の来訪も多いので、当然日本風のものがよい」とされたということです。

「東宮御所」の落成式は1960年4月27日に行われ、皇太子時代の上皇ご夫妻は、生まれて4カ月になろうとする浩宮さまと共に1960年6月17日に「東宮御所」へと引っ越しをされています。

完成したばかりの「東宮御所」にて当時の皇太子ご一家(1960年6月)
完成したばかりの「東宮御所」にて当時の皇太子ご一家(1960年6月)

この時、昭和天皇から、万那料(ご祝儀)、唐津焼の壺、銀製の水瓶が贈られたということです。

5月に公開された「仙洞御所」の公的部分は、建設当時と大きく変わっていないということで、当時の資料などを基に部屋を見ていきます。

(平面図イラスト:さいとうひさし)
(平面図イラスト:さいとうひさし)

表玄関の車寄せは鉄筋コンクリート製で、屋根は銅吹きとなっています。

仙洞御所「表玄関 御車寄」
仙洞御所「表玄関 御車寄」

ここで、皇太子時代の上皇ご夫妻、両陛下は賓客を出迎えられています。

また、陛下が国際親善から戻られると、同行されなかった雅子さまや愛子さまが出迎えに出られることもありました。

仙洞御所「鶴溜り」

玄関を入り、右手の階段を上ったところにあるのが「鶴溜り」と呼ばれる場所です。

仙洞御所「鶴溜り」
仙洞御所「鶴溜り」

一番奥に、吉岡堅二氏による「飛翔」の屏風絵が飾られ、この鶴の絵から「鶴溜り」と呼ばれるようになったそうです。

「鶴溜り」に飾られる吉岡堅二氏の屏風絵「飛翔」
「鶴溜り」に飾られる吉岡堅二氏の屏風絵「飛翔」

部屋と言うよりロビーの様な場所で、控え所として使われたようです。

仙洞御所「檜の間」

「鶴溜り」の左手にあるのが「檜の間」です。

仙洞御所「檜の間」
仙洞御所「檜の間」

ここでは海外からの要人などとお会いになる場合に使われています。お誕生日の記者会見なども行われています。壁は、上部はフェルト生地で、下の部分に檜材が使われています。

仙洞御所「日月の間」

「仙洞御所」の一番西側にあるのが、「日月の間」です。

仙洞御所「日月の間」
仙洞御所「日月の間」

一番大きな部屋で、大勢の方と会う場合、例えば、海外青年協力隊の方々や沖縄から来た豆記者とお会いになる時に使われています。

また、賓客との会食をする場所、食堂としても使われ、部屋の左手には、食事の配膳室へと繋がる扉があります。

部屋の北側と東側の上部に配されているのが、東山魁夷氏による「日月四季図」です。

「日月の間」の東山魁夷氏の「日月四季図」(一部)
「日月の間」の東山魁夷氏の「日月四季図」(一部)

春の山・夏の虹・秋の山・冬の山と季節の移り変わりを表していると言います。

冬の山に描かれた月は白金箔押しで、写真の左奥に見ることができます。

「日月の間」の東山魁夷氏の「日月四季図」(冬の山と月)
「日月の間」の東山魁夷氏の「日月四季図」(冬の山と月)

写真の右側に見える夏の虹は岩絵具に金箔、白金砂子より描かれています。

「日月の間」東山魁夷氏の「日月四季図」(右に見えるのが夏の虹)
「日月の間」東山魁夷氏の「日月四季図」(右に見えるのが夏の虹)

東面の夏の山に描かれた日輪は金箔押しだということです。横は約22.5m、縦は約2mの長大な画面となっています。

「日月の間」の東山魁夷氏の「日月四季図」(夏の山と日輪)
「日月の間」の東山魁夷氏の「日月四季図」(夏の山と日輪)

仙洞御所「楢の間」

「楢の間」は、集会室として使われました。

仙洞御所「楢の間」
仙洞御所「楢の間」

お庭の清掃などを行うボランティア、勤労奉仕団へのご会釈の場所としても使われています。また、奥に見える今は板張りの部分は、建設当時カーテンで、スクリーンを覆っていました。反対側には、映写室も設けられ、映画などを鑑賞するために使われましたが、現在は映写室は使われていないということです。

2014年、上皇さま80歳、傘寿のお祝いの会が両陛下などにより行われた際には、ここに舞台が作られ、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが日本舞踊を披露したこともあります。

仙洞御所「黒柿の間」

「黒柿の間」は、小応接として、ご進講や職員と会われるときなどに使われました。

壁や扉は、名前の通り、黒柿ねりつけで作られています。柿の中で、切ったときに黒い模様の木がまれに出てくると言うことで、その木が使われています。黒っぽい色が印象的になっています。

仙洞御所「紅葉の間」

紅葉の間は控室として使われました。

仙洞御所「紅葉の間」
仙洞御所「紅葉の間」

こちらも壁はモミジ材が使われています。

こうした公的部分の部屋は、「仙洞御所」への改修で、クリーニングなどが行われましたが、作られた当時から使い方は余り変わらなかったようです。

仙洞御所の私室部分

公開されていませんが、私室部分を調べてみました。

建設当時の発表などによれば、私室部分は、吹き抜け天井の談話室、居間、食堂、美智子さまも使われたキッチン、お子さまのための遊戯室と「皇子室」と呼ばれるお子さま用の部屋が2つ、2階部分には来客室が2つのほかホール、書斎、ご夫妻の寝室、化粧室、浴室などがあったということです。

キッチンでの美智子さま
キッチンでの美智子さま

このうち、談話室は、天皇皇后両陛下の皇太子時代、お誕生日の際にご近影の撮影で使われていたということです。

陛下51歳の誕生日のご一家映像(皇太子時代)
陛下51歳の誕生日のご一家映像(皇太子時代)

また、陛下が愛子さまを撮影されたのも談話室と思われます。吹き抜けと言うこともあり、2階への階段もあることが分かります。

陛下撮影ビデオの雅子さまと愛子さま(当時は皇太子妃雅子さま)(2004年 宮内庁提供)
陛下撮影ビデオの雅子さまと愛子さま(当時は皇太子妃雅子さま)(2004年 宮内庁提供)