太平洋戦争の終戦直前に長野盆地の周辺で進められた「本土決戦」の準備について研究した高校生が2日、市民団体の集いに招かれ、論文の内容を発表しました。良く知られる「松代大本営」という狭い地域にとどまらず、計画全体を「長野大本営」と呼ぶのがふさわしいと述べました。
終戦直前、長野盆地で進んでいた「本土決戦」準備
米軍の侵攻をにらんだいわゆる「本土決戦」の準備としては、旧陸軍主導で政府機関などを移そうと長野市松代町の3つの山に掘った地下壕が「松代大本営」として良く知られています。このうち最も規模が大きい「象山地下壕」は長野市が一般公開しています。
一方で、現在の長野市内だけでも安茂里地区の地下壕や共和の高射砲陣地、長沼の飛行場などの建設が進んでいたほか、長野市の西にある旧坂井村(現在の筑北村)でも住民を動員して地下壕建設に着手するなど、様々な工事が善光寺平一帯で行われていたことが近年の研究でわかってきました。
その一つ、長野市安茂里小市の山の斜面に残る穴は1945(昭和20)年の終戦直前、旧海軍の部隊が軍令部の壕を建設しようと着手したもので、約100メートル掘ったところで終戦を迎えました。
住民有志などで作る「昭和の安茂里を語り継ぐ会」では、「大本営海軍部壕」と名付け、近くに資料館を作るなど保存や研究に取り組んでいます。
高校生が論文 「松代大本営」から「長野大本営」へ
11月2日、会の主催で「戦後80年、高校生に学ぶ集い」が安茂里公民館で開かれました。講演者として招かれたのは、長野清泉女学院高校1年生の新谷花梨さん(16)です。
新谷さんは、この夏行われた高校生対象の「地歴甲子園」に向けてまとめた論文で大本営の計画を取り上げました。
集いでは、論文「幻の長野盆地遷都計画の意図に関する一考察 ー「松代大本営」から「長野大本営」へのパラダイムシフト(既成概念の転換)ー」を約40人の出席者の前で発表しました。
新谷さんは、「地下壕で抗戦する段階になった時には、多くの人々が暮らす平坦地は既に破壊され尽くされ、住民の多くは命を失うことになっていたでしょう。そうした犠牲が前提の軍事作戦であると知り、恐怖で言葉を失いました」と、悲惨な結果を招いたであろう「歴史のif(もしも)」を率直に語りました。
そして、当初は「避難」の性格が強かった計画が、沖縄戦以降は「最終決戦」を意図したものに変わっていったのではないかと述べました。
また、陸軍に続いて海軍も後から参画して工事が進んでいたことに触れ、計画全体の呼称について、松代という狭い地域に陸軍が作った「松代大本営」より、より広範囲の「長野大本営」を用いるのが適切ではないかと述べました。
新谷さんの発表:
「長野盆地全体で要塞化が進んでいたことや、海軍も軍令部を移す前提で主体的に長野盆地の軍事作戦に関わっていたことを踏まえると、これまで使われていた『松代大本営』という呼び名はより実情に近い『長野大本営』へと更新していくことが適切ではないかと提案します」
移転計画の全容を表す言葉として「長野大本営」が相応しいという主張は、研究者や「昭和の安茂里を語り継ぐ会」も取り上げています。
出席者は、80年前の出来事に高校生が興味を持ち自ら研究して賛同してくれたことに感心するとともに、「16歳というのに発表のレベルの高さに驚いた」などと話していました。