ノーベル生理学・医学賞の受賞が決定した大阪大学の坂口志文特任教授(74)。研究の出発点となった愛知県では、妻・教子さんとの出会いなど深いゆかりがありました。

坂口志文特任教授と妻・教子さん
坂口志文特任教授と妻・教子さん
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■京大大学院を中退して愛知へ…「その時の決断が現在に」

滋賀県長浜市出身の坂口さんは、1977年に京都大学医学部から京大の大学院へと進みますが、中退して選んだ道が「愛知県がんセンター」でした。退路を断って無給で研究を続けたといいます。

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坂口志文さん:
「愛知県がんセンターに行き、そこで勉強させてもらった。その時の決断が現在につながっていると思う」
 
免疫システムが誤って自分自身を攻撃する「自己免疫反応」についておよそ2年半にわたって研究。これがのちに今回の受賞研究である免疫反応の暴走を抑える「制御性T細胞」発見につながりました。

■ともに研究を続けた教授が語る“太っ腹”な一面

現在も坂口さんと共同研究を行う、名古屋市立大学の山崎小百合教授は、「発表を聞いた時に涙が出た」と喜びを語りました。

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山崎教授は、坂口さんの妻・教子さんの紹介がきっかけで、1998年から3年間、坂口さんのもとで免疫について研究を続けました。

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山崎教授:
「とても面白い研究なので『基礎研究ができたら嬉しいな』と思って参加した。研究に対しては、完璧で一生懸命。当時、全く知られていなかったことをずっと一筋に研究されていた。一筋で熱心に粘り強く突きつめる姿勢は、素晴らしいと思います」

さらに太っ腹な一面も…。

山崎教授:
「(当時は)私も若かったので夜遅くまで頑張って実験していると、『夕食行こうか』とよく声をかけていただいて。今も共同研究で伺うと、うちの大学院生も一緒にお昼をごちそうになる」

坂口さんは今後も、新しいがん治療などに向け「制御性T細胞」の実用化の研究を続けていきたいとしています。

■出会いは名古屋…不遇の時代も支え続けた妻・教子さん

坂口さんは7日午後、研究者でもある妻・教子さんと一緒に会見を行い、ノーベル賞の受賞決定の背景には「妻の存在が大きかった」と話しました。

その2人の出会いも、実は名古屋です。

坂口さんが、愛知県がんセンターでおよそ2年半研究に没頭していた頃、名古屋市立大学の医学部生だった教子さんが、がんセンターをたまたま訪れて坂口さんと出会いました。

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その時の坂口さんの印象について教子さんは「なかなか見たことないような変わった人だった。一生懸命研究をやっていて、他の人とは違って見えて楽しかった」と振り返っていました。

その後、1980年に2人は結婚。坂口さんは研究拠点をアメリカに移したものの、人気のない研究テーマだったため手伝ってくれる職員や学生はおらず、不遇の時代だったそうです。

医師である教子さんが実験をサポートし、連名で論文も出していたということです。

また、研究成果が上がらず苦しい時も、「(教子さんが)明るく前向きだったから、非常に楽天的に構えることができた」と、その存在の大きさを語っていました。

東海テレビ
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