静岡市葵区に、驚きの光景が。病院の屋上に本物の戦闘機があるのだ。なぜ病院に戦闘機が? この奇妙な光景の裏には、日米の平和を願う深い思いが隠されていた。
地元では有名な「飛行機のある病院」
不思議な光景を調べるため、JR静岡駅から東へ車で約20分。静岡市葵区瀬名の住宅地にやってきた。まずは周辺で話を聞いてみる。

地元の人に、飛行機がある建物について尋ねると、皆さんすぐに「菅野医院という病院です」と答えてくれた。菅野医院の近くにある公園は、近所の子供たちから「飛行機公園」と呼ばれ、地元ではシンボルとして親しまれているそうだ。
ただ飛行機があることは知っているものの、なぜ飛行機があるのか、その理由を知る人はいなかった。ならば直接病院を訪ねて聞いてみよう。

米国大使から永久貸与された戦闘機
菅野医院分院へ赴き事情を聞くと、「その飛行機を屋上に上げた前院長本人に聞いて」とのこと。菅野医院分院を開業した前院長、菅野寛也さんに話を聞くことがでた。
屋上に飛行機がある理由を聞くと、想像していなかった答えが返ってきた。

菅野医院分院・菅野寛也 前院長 :
実はアメリカの昔の大使であるマンスフィールド大使から、永久貸与という形で頂いています
日本の機体ではなく、アメリカの飛行機だったのだ。そして永久貸与、つまりアメリカから実質的に譲り受けたというのだから驚きだ。

ちなみにマンスフィールド氏というのは、1977年から1988年まで、駐日アメリカ合衆国大使を務めた人物だ。なぜ飛行機をアメリカからもらったのか? 菅野さんが理由を教えてくれた。
屋上の飛行機は、病院の西側にある賤機山に機首を向けて設置されている。
賤機山には、静岡空襲の犠牲者の慰霊碑と米軍機搭乗者の慰霊碑の2つがあり、菅野さんは両者を追悼する「日米合同慰霊祭」の主催者だったのだ。

静岡空襲ではアメリカのB29も墜落し、搭乗者23人が死亡したが、「死んでしまえば、敵も味方もない」と慰霊碑が築かれたのだ。
菅野医院分院・菅野寛也 前院長 :
その実績がマンスフィールドさんの耳に入って、ここへ永久貸与という形になった
実際に、マンスフィールド大使からの公文書には、「本航空機を貴病院の屋上に展示する事により日米両国の親善に役立ち、平和の象徴となります事を本官は確信いたします」と明確に記されていた。菅野さんにとって、この文書はかけがえのない宝物だ。

「初代ブルーインパルス」の塗装は平和の証
菅野さんによると、この機体は「ノースアメリカン F-86」という戦闘機で、特筆すべきは「初代ブルーインパルス」と同型機だという点だ。
1964年の東京オリンピック開会式では、ノースアメリカン F-86のブルーインパルスが空に五輪のマークを描き、世界を驚かせた。菅野さんは、その光景を新宿駅から目にしたそうだ。そこで「F-86を置くのならば」と、関係機関から許可を得て、アメリカから来た機体にブルーインパルスの塗装を施した。
特別に屋上のF-86を見せてもらった。

そこには、白を基調に機体中央に青いラインが描かれた、シンプルながらも洗練されたデザインの戦闘機が鎮座していた。実物はやはり大迫力で、その存在感に圧倒される。
機体は当時のままの状態を保っており、展示飛行用スモークを出すエンジンの排気ノズルも間近で見ることができた。
そして機体の正面には、2つの慰霊碑が立つ賤機山が、まっすぐに見える。

91歳の前院長「飛行機が生きがい」
菅野さんは取材時91歳。元気の秘訣を聞くと「この飛行機のおかげ」と語った。今でも屋上のF-86を見ると「操縦してみたい。飛びたい」という気持ちがこみ上げるという菅野さん。大好きな飛行機とともに、平和のことも考え続けてきた。
菅野医院分院・菅野寛也 前院長:
それが私自身の生きがいというか、つっかい棒というか。人生のなにかを、この飛行機から感じます

病院の屋上に戦闘機が設置されているという、不思議な光景。飛行機が飛び立つことはないが、機首を向けた賤機山へ、いつも日米の友好と平和へのメッセージを送り続けていた。
■施設名 菅野医院分院
■住所 静岡市葵区瀬名1丁目7-3
■問合せ 054-262-5050
(テレビ静岡)