戦後80年。長野県安曇野市で育ち、特攻で戦死した22歳の青年・上原良司。日本の敗北を予見し、自由の尊さを記した「遺書」(所感)を残しました。その言葉は今も多くの人を惹きつけています。戦後80年の2025年、後世につなごうと松本地域の高校生が「良司の思い」に向き合いました。

「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」

太平洋戦争末期、特攻出撃前の気持ちを「所感」として書き記した一人の青年、上原良司。彼はこの翌朝、沖縄洋上で戦死しました。22歳でした。

「遺書」として書かれた「所感」。日本の敗戦を確信していること。そして、「自由の尊さ」についてつづられています。

「自由の勝利は明白な事だと思います」
「過去において歴史が示したごとく、未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます」

「所感」は戦没学生の手記を集めた「きけわだつみのこえ」など多くの書籍に掲載され注目されました。


有明山を間近にのぞむ安曇野市穂高有明。良司のふるさとです。

医院の三男として1922年(大正11年)に生まれ、松本中学・現在の松本深志高校を卒業するまでこの地で過ごしました。

8月9日、良司の愛した風景をたどったのは、松本地域の教員や高校生で作る「わだつみのこえ80年の会」です。

深志高校2年生 望月美里さん:
「当たり前の生活、当たり前の人生があったんだなと。未来が約束されていたはずなのに、戦争というものによって奪われてしまったというのは、むなしいことだなと実感することができました」

松本第一高校 田中那和さん:
「自分で見ると、想像がしやすい。記憶をしっかり受け継いでいきたいなと思いました」

会のメンバーは良司がどのように生き、戦争に向き合ったかを学び後世に伝えていこうとしています。

東京・慶応大学でも―

良司が通っていた慶応大学で今、「ある一家の近代と戦争」と題した企画展が開かれています。

近代日本政治史が専門の慶応大学 都倉武之教授:
「さまざまな写真をかなりまめに撮っているので、家族の様子がよく分かる、そういうきっかけをつくってくれている」

笑顔あふれる家族写真の数々。上原良司と家族です。

上原家を10年以上調査してきた都倉教授は―

都倉教授:
「特攻で亡くなった方っていうのは『特別な人』というか、特に良司は『すごい人』っていうようなイメージ持たれてるように思うんですけども、生身の人間としての良治を知ると、遺されている『文書』の見方が変わってくるんじゃないかなと思うんです。さらに上原家を知ることによって、より広い目で戦争を考えてもらいたい」

笑顔の5人きょうだい。真ん中が三男の良司です。

手に持ったカードを読むと「父サン頑張レ」のメッセージ。
1938(昭和13)年、中国に軍医として出征した父を励まそうとカメラが趣味の長男・良春が企画したものです。

一方、ユーモラスな絵が描かれているのは、次男・龍男の手作りカルタ。きょうだいで遊んだのでしょうか?戦前の上原家が、医師の父親のもと文化的で豊かな生活を送っていたことが分かります。


1941年、良司は2人の兄と同じ慶応大学に入学しました。

都倉教授:
「こちらは昭和16年12月8日の日付で、真珠湾攻撃の時に、大興奮でみんな盛り上がってるっていう様子が生き生きと書かれてる」

入学後の12月に真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まりました。軍国教育を受けてきた良司はクラスメイトと同様、臨時ニュースに歓声を上げました。

しかし戦況が悪化し、2年後の1943年、「学徒出陣」で陸軍に入隊。理不尽な暴力や訓練に疑問を抱くようになります。

特別操縦見習士官時代の日誌には―

上原良司の日誌:
「目的のない事をやるのは愚の骨頂」

上官のコメント:
「貴様は上官を批判する気か!」

都倉教授:
「自分は何のために戦わなければいけないのか、あるいはもしかしたら死ななければいけないのかっていうようなことに対して、悶々といろいろ考えるようになっていく。そういう中で自由主義っていうようなことを書きつけるようになってくる」

自由への憧れを抱きつつ、厳しい訓練を経た良司は1945年5月、鹿児島の知覧飛行場へ。ついに特攻出撃を命じられます。

その前日に書き記したのが冒頭の「所感」(遺書)です。

「人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対にできなく」
「権力主義・全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」


一方で、死ぬことに折り合いを付けようともしていました。病死した幼なじみ「きょうこちゃん」への思いです。

「天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません」

妹・清子さん(故人・2001年番組より):
「彼は、自分の特攻での死を天国にいるきょうこさんに会うための手段ということで、『生』を諦めたんですね。きょうこさんに行き会う気持ちだけで行ったんじゃないかと思います」

妹・登志江さん(2001年番組より):
「『おれは死んでも靖国神社には行かないからね』って言ったんです。『天国にいくから』って。『靖国神社に行ってもいないよ』って私はその一言が記憶に残っています」


1945年5月11日午前9時、沖縄海上の敵艦船に突入―

上原良司 享年22

死後、イタリアの自由主義者・クローチェの本に書き込まれた遺書や手紙が、実家の本棚や引き出しに隠されているのが見つかりました。

都倉教授:
「最後まで死ななくていい可能性もあるんじゃないかと思ってるからこそ隠してる。よくよく考えるとやっぱり彼は生きたかったと思います。学生時代の彼は非常に普通ですし、そういう意味では彼が、必死に表現して残してくれたことを、何か別世界のものにせずに自分に近づけて考えてみる、そういうことが大事なのかなと」


上原家では、良司の前に海軍軍医の次男の龍男が1943年、オーストラリア沖で戦死。後に陸軍軍医の長男・良春も1954年、ビルマ(現・ミャンマー)で戦病死しています。

都倉教授:
「無数の死っていうものがこの日本、あるいは世界中でこの時に起こったんだと。今も世界で起こってるっていう、そういう想像力を少しずつ広げていくっていうことのために戦争を記録していくっていうことが大事なんじゃないかと思います」

安曇野市穂高有明良司の実家

良司のおい 上原幸一さん:
「何でもかんでもあると言えばあるんです」

三兄弟の遺品は妹・清子さんの長男・上原幸一さん(77)が管理しています。子どもの頃のノートや課題まで―。

幸一さん:
「普通はこんなもの捨てますよね。本人たちがいないわけですから、(親が)せめて物でも残しておきたいと思ったんでしょうね」


三兄弟の母・よ志江さんは、孫の幸一さんに、毎日のように戦争の話をしたといいます。

幸一さん:
「(上原家にとって)戦後はものすごくつらい時代でしたよ。やっぱり家の人間にとっては、『所感』(の内容)というよりも、やっぱり死んでしまったということの方が大事でして、人間死んでしまってるともう、取り返しつきませんから」

8月9日、幸一さんのもとを「わだつみのこえ80年の会」の高校生らが訪れました。

幸一さんが高校生に説明:
「これ、航空手帳といいまして。全部合わせて100時間くらい」

幸一さん:
「本当にこういうことが、おとぎ話でなくてあったということを実感してもらうのはものすごくありがたいと思ってますね。過去のことではなくて、今でも起こり得る可能性もありますし。戦争というのは『起こればつらいよ』ということだけは、言えますよね」

松本深志高校 望月美里さんが会のメンバーに発表:
「最期まで思想と個人の自由を手放さなかった非常に意思の強い人物と考えます」

高校生は、良司が残したものを後世につなげたいと、8月23日に開く「集い」で、発表する予定です。

松本深志高校の望月美里さんは、日頃使っている「SNS」に、人々の分断をあおる危険を感じるようになったと言います。

望月さんが会のメンバーに発表:
「(SNSは)自分の意見が唯一無二の正解だと錯覚してしまう危険性があると感じます。相手の意見を尊重せず、自分の意見を一方的に押し付ける、この行為こそ戦争の要因となり得るのではないでしょうか」

望月さん:
「上原さんは相手の意見をちゃんと聞いて、考えているんですよね、遺書や所感を読んでいると。そういう人間になりたいなと思いました」

松本県ヶ丘高校の滝沢葵さんは、同世代に戦時中の地域を身近に感じてもらおうと写真をAIでカラー化する活動をしています。

滝沢さん:
「この先も、戦争を二度と繰り返さないためにも継承していくのが僕達の役割なんじゃないかな」

家族を愛し、自由を愛した「普通の青年」上原良司が遺した言葉は戦後80年の今も多くの人の心に響いています。

「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」

長野放送
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