終戦から15日で80年です。終戦間際、当時の人々は戦況をどのように受け止めていたのでしょうか。『伝単』と呼ばれるビラを拾った天草市の男性の証言を通して考えます。
焼夷弾を落とすB29の周りに記された日本各地の地名。その都市への空襲を予告しています。
戦時中、敵機によってこのようなプロパガンダのビラが上空から撒かれました。
中国語が由来の『伝単』と呼ばれ『紙の爆弾』とも言われています。
【くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク 高谷 和生 さん】
「爆発はしない。国民の心の中に入り戦争したくないという気持ちを持たせるための宣伝ビラ」
くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワークなどが玉名市で開催している企画展では戦争の実相を知ることで平和の尊さについて考えてもらおうと様々な種類の伝単を展示しています。
【高谷 和生 さん】
「伝単が落とされてだいたい3日のうちに8割方の都市に米軍が空襲を行う。徐々に日本人は信じるようになってきた」
【日本本土に撒かれた伝単は約2000種類約9700万枚】
【中原 理菜 キャスター】
「近くに住む人は伝単が降ってきた日の様子を真夏なのに雪が降ってきたようだったと話したということです」
熊本では、5種類が確認されている伝単。その証言者の1人が天草市枦宇土町にいます。
井上 善徳さん85歳。終戦の年、1945年の春頃当時5歳だった井上さんは『伝単』が降ってきた日のことを覚えています。
【井上 善徳さん(85)】
「帽子岳(ぼうしだけ)といいます。山の向こうに伝単をバーンと落とした」
2種類を拾った井上さん。印象に残っていたのはそのうちの1つに使われていた写真。くまもと戦跡ネットワークの調べでそれが誰なのかわかりました。
【井上 善徳さん】
「トルーマン大統領だね、チャーチルではないと」
原爆投下を命じた当時のアメリカ大統領トルーマンの写真が使われた伝単。無条件降伏を勧告する内容でした。
「ハリー・エス・ツルーマンより一書を呈す。無条件降伏は日本国民の抹殺乃至(ないし)奴隷化を意味するものに非る事(あらざること)は断言して憚(はばか)らず」
幼かった井上さんはこの伝単の意味はわかりませんでしたが、周りの大人たちは敏感に反応していました。
【井上 善徳さん】
「『拾ったものは出せ』と役場の職員が取りに来た。父と母も見たがあまり詳しく話さなかった。(大人たちは読んでいるかもしれないが)『日本が負ける』とかは口が裂けても言えない時代だから」
人々は戦況をどう見ていたのか。決して口にできない日本の敗戦が近づいていることを感じていたのかもしれません。
井上さんは海を挟んだ長崎の原爆の日のことも記憶しています。
【井上 善徳さん】
「8月9日、裏の田んぼで母と祖母とで草を採っていて、ピカっと異様な光。『何かあったぞ、(家に)上がれ』と。ピカドンの光を見た」
自宅には防空壕の跡も。常に命の危険を感じながら幼少期を過ごしてきました。
【井上 善徳さん】
「戦争はすることはならん。子どもたちがああいう思いをしないように…いまは日本は一番いいとき。大事にせんといかん」
今も鮮明に残る幼い頃の戦争の記憶。『今の平和を大事に…』終戦から80年のメッセージです。
くまもと戦跡ネットワークの高谷和生さんは7月、伝単についてまとめた『平和継承リーフレット』を熊本市に寄贈しました。小中学校などで活用されるということです。
また、当時は伝単を拾ったら憲兵などに届けることとされていたため現存するものが少ないのが現状です。
くまもと戦跡ネットワークでは伝単に関する証言を集めています。