今年で戦後80年を迎える中、当時1歳で被爆した女性が原爆、そして平和への思いを語った。これで取材を受けるのは最後だと話す女性が語った思いとは…。
1歳の時に広島で被爆した女性 移り住んだ先ではいじめも…
1945年8月6日に広島、8月9日に長崎にそれぞれ1発ずつ投下された原子爆弾。
第二次世界大戦中、人類史上初めて使用された原爆では、多くの民間人が巻き込まれ、その犠牲者は約21万人にのぼると言われている。
2025年で戦後80年を迎え、各地で原爆犠牲者の追悼式が行われる中、より平和への思いを強くしている人がいた。
1歳の時に爆心地から2kmの地点にある広島の自宅で被爆した金田宏子さん(81)だ。

「母が私を連れてトイレに一緒に入っているその瞬間。本当にその瞬間。もうちょっと遅ければダメだったけど、奇跡的にその瞬間に原爆が落ちて…」
原爆投下後、母・スエさんに連れられ、焼け野原となった広島から両親の実家があった村上市へと移り住んだ金田さん。
小学生になると貧血で倒れるようになり、被爆者としていじめられるようになったという。
「男の子から『ピカドン、ピカドン』と。今でいういじめ。やっぱりそういう時、すごくツラかった」
母親の体験もとに“戦争の悲惨さ”伝える「生死さまよう人々が右往左往…」
苦しい幼少期を過ごした金田さんは、こうした経験をする人が二度と出ないよう1966年に結成された新潟県原爆被害者の会の会員となり、自身の経験や戦争の悲惨さを様々な場で語り伝えてきた。

ただ、1歳だった金田さんに被爆当時の記憶はない。金田さんの口から語られるのは、母・スエさんが目の当たりにした広島の凄惨な状況だ。
「(母から)口だけで聞いていたが、記憶がなくなるし、定かでなくなるから母に書き記しておいてほしいと頼んだ」
忘れてはいけない当時の記憶は、母・スエさんの手記に全て残っていた。
「血だらけになって泣き叫ぶ人たち、建物が崩れてがれきの下になってうごめいている人、それからケロイドで焼けただれ、生死をさまよっている人々が右往左往して逃げ回っているのです」(母・スエさんの手記より)
2年前にパーキンソン病を発症した金田さん「これが最後の取材」
戦争や原爆を知らない世代に語り継ぐ戦争・原爆の恐ろしさ。

しかし、金田さんが所属していた新潟県原爆被害者の会は4年前、被爆者の高齢化に伴う会員の減少などを理由に、会としては存続するものの活動は停止した。
さらに、金田さんは2年前にパーキンソン病を発症。言葉がスムーズに出てこないほか、はっきりしていた記憶も思い出せないことが多くなり、講演などの活動をすべてやめたという。
「被爆80年。私にとっては、これが最後の取材対応だろうと思う」
戦争・原爆の悲惨さを語り継ぐ被爆2世の女性「2世・3世の掘り起こしを」
それでも被爆者たちが抱き続けてきた平和への思いは、次の世代へと紡がれている。
8月6日に行われたのは、広島・長崎の被爆を語り継ぎ平和を願う会。代表を務めるのは、両親が広島で被爆した被爆2世の西澤慶子さんだ。

「(被爆)2世と3世を仲間に入れて、声をかけて掘り起こしていきたい。地道にしなければだめだと思うが、その掘り起こしをしていきたいというのが今の私の思い」
原爆被害者の会の事務局長を務めていた西山さんが25年4月に亡くなったことから、西澤さんが事務局長を引き継ぎ、父母や祖父の体験をもとに戦争や原爆の悲惨さ、恐ろしさを語り継いでいる。
「アメリカが投下した2発の原子爆弾は、それまでの一般市民の生き生きとした日常生活を一瞬にして死の街に変えました。被爆80年を迎える今日こそ、老いも若きも平和をつくり出し、守ることの大切さを考えていきましょう」
「核保有国なくしてほしい」戦争の記憶・平和への思い次世代へ
唯一の被爆国として、二度と悲惨な経験をする人が出ないように。

金田さんは「たった一つの原爆が一瞬にして地上を焼き払い、十数万人の人々の命を奪った。これがやっぱり恐ろしい。世界で核保有国がまだまだある。少しずつでも核保有国はなくしてほしい。平和という言葉を常に皆さんの心において」
多くの犠牲を出した戦争が終わり80年。
戦争を体験した世代が少なくなる中、私たちはその記憶、そして平和への思いをつなぎ続ける必要がある。
(NST新潟総合テレビ)