「アメリカの歴史で最も恥ずべき時の一つだ」
2022年2月18日。バイデン大統領(当時)は日系人の強制収容に関する声明を発表した。
「人種差別や恐怖心、外国人への嫌悪を許した時に起こる悲劇的な結果」として「ニドトナイヨウニ」と日本語の表現を交え、過ちを繰り返さないという決意を示した。
太平洋戦争中の83年前、アメリカで出された「大統領令9066号」。
これによって日系人12万人以上が強制収容所に送られることとなった。強制収容に翻弄された日系人の人々は何を思い、どう行動したのか。当時の状況を聞いた。
(2022年2月28日に公開した記事を改稿したものです。)
■収穫前のイチゴを残し、一家は収容所へ送られた
『野崎京子さん】「トランクを2つ持って収容所に入ったんですよ。4人家族の物をトランク2つに入れて。大変だったと思います…」
京都市の野崎京子さんはアメリカで生まれ育った日系3世。
研究者として、自身や家族が経験した強制収容の歴史を大学の講義や執筆活動で伝えてきた。
カリフォルニア州でイチゴ農家を営んでいた野崎さん一家の生活は戦争によって一変し、わずかな荷物だけを持って自宅を追われた。
【野崎京子さん】「1日に3時間くらいしか寝なくて、頭にライトをくくりつけて夜中でも収穫をして、本当に大変な思いをしてイチゴを作っていました。それなのに、イチゴの香りがする中それを放り出して収容されたんですよね。両親はさぞや無念だったろうなと思います」
■日本にルーツがあるだけで「敵性外国人」とみなされた
1941年12月の真珠湾攻撃後、日米は太平洋戦争に突入。
アメリカに住む日系人たちは「敵性外国人」とみなされた。
そして2カ月後の1942年2月19日、当時のルーズベルト大統領が署名した「大統領令9066号」によって、西海岸に住む日系人12万人以上が自宅を追われ、10カ所の強制収容所へ送られた。
そのほとんどは、アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ人たちだった。
「日本にルーツがあるだけで危険な人物だ」という、人種差別的な偏見によるものだった
■鉄条網に武装兵士。荒野に作られた強制収容所
カリフォルニア州北部に作られた、ツールレイク強制収容所。
乾燥した土地が延々と広がり、冬は気温が氷点下まで下がる。
ここには多い時には約1万9000人の日系人が収容された。
学校などの施設はあったが、収容所の敷地は鉄条網で囲まれ、監視塔からは武装した兵士が常に目を光らせていた。
厳しい気候の中、人々は木材を組み合わせた粗末なバラックでの生活を強いられた。
10カ所の強制収容所の中でも、監視体制が特に厳しかったツールレイクでは、人々は敷地の外に出ることは許されなかった。
また、収容者のうち「親日」的な行動を取ったとみなされた人を収容する特別な留置施設まであった。
【ツールレイク強制収容所跡を管理する国立公園局の担当者】「この留置施設に入れられたのは犯罪者や悪人だけだと思われがちですが、そうではありません。家族がいる普通の人、自分や家族に対する仕打ちにただ怒っている人たちでした」
実はこの収容所に送られた人たちには多くの場合、ある共通点があった。アメリカへの忠誠を問う質問に「NO」を突き付けていたのだ。
■アメリカへの忠誠を問う質問書
自宅を追われ、10カ所の収容所に入れられた日系人たち。そこに追い打ちをかけたのが、アメリカ政府から届いた「質問書」だった。
収容所から出しても問題ないかを判断するため、など様々な狙いの質問があったとされるが、その中でも特に日系人たちを激しく動揺させた質問があった。
【質問書より】
「アメリカ軍に入隊する意思があるか?」
「天皇への忠誠を捨てるか?」
アメリカへの忠誠を問うこれらの質問に「NO」と答えた人の多くは、その時にいた収容所から、ツールレイク強制収容所へと移された。
野崎さんの父・力(つとむ)さんもその1人だった。
「Yes」と書けば日本にいる親族がどうなるか分からない、そう考えた末の苦渋の選択だった。
その上で「アメリカと敵対するつもりはない」と書き加えたものの、一家はツールレイクへ移された。
その後、力さんだけがさらに「抑留所」と呼ばれる施設へ送られ、家族は離ればなれで暮らすことを余儀なくされた。
【野崎京子さん】「父が一番言いたかったことは『こういうことは収容所に入れる前に聞くべきだ』ということなんです。収容所に入れてしまって自由も奪い、アメリカ人としての権利を全て否定した後に『アメリカ人として戦え』なんて、よく言えたなと」
戦後、アメリカ政府が公式に謝罪したのは40年以上経った1988年。
当時のレーガン大統領が「強制収容は人種差別による重大な過ちだった」と認め、1人当たり2万ドルの補償金が支払われることになった。
■過ちの歴史を伝える場所
カリフォルニア州・ロサンゼルス中心部に「全米日系人博物館」という博物館がある。
ここには約15万点の資料や写真が所蔵され、日系人の移民や強制収容の歴史を伝えている。
取材した日は、地元の中学生たちが見学に訪れていた。
【博物館を見学した中学生】「強制収容はとても悪いことだと思います。二度と起こってほしくないと思いました」
【博物館を見学した中学生】「自分の家族もアメリカに移民として来たので共感出来ました。他の文化や他の人種の人たちのことを知ることが出来て、とても興味を持ちました」
この博物館は、強制収容を経験した日系人たちが中心となって寄付を集め設立された。
その一人、日系3世のマサコ・ムラカミさんも、9歳からの2年間、ツールレイクの強制収容所で暮らしていた。
ムラカミさんの父親はアメリカへの忠誠を問う質問書に「No」と答えた。
そして戦争が終わった後も、そのことについて、話そうとしなかったという。
【マサコ・ムラカミさん】「戦後、日系人の間では『あなたはどこの収容所にいたの?』というのがお決まりの会話でした。でもツールレイクにいた人たちは、他の人たちに見下されると思って話をしたがらなかったんです。
私の両親が話してくれたのは、父が亡くなる直前になってからでした。その時に聞いた話では、父はアメリカ政府に対してとても怒っていました。私たちはみんなアメリカ市民なのに、強制収容所に入れられたからです。だからこそ父は質問書に“NO”と答えたと言っていました」
博物館の設立に力を尽くしたムラカミさんは、オープン後もボランティアスタッフとして運営を支えた。
強制収容の歴史は、アメリカ国内でもまだ十分に知られていないと感じていた。
【マサコ・ムラカミさん】「二度と同じ事を繰り返さないために、過去に何が起きていたのかを知る必要があります。だからこそ、この博物館があることがとても大切なのです。ロサンゼルスに来た人には是非立ち寄って欲しいと思っています」
日本にルーツがあるだけで「敵」とみなされた、日系人の強制収容。日系3世の野崎さんは、強い危機感から研究者として過ちの歴史を伝え続けた。
【野崎京子さん】「知らないからやってしまうということがあります。差別する人というのはほとんど自分が差別しているつもりがないんですよね。当たり前だと思っています。
強制収容は『ずっと前に起きたこと』というだけじゃなくて今でも起きていることと結びついています。こういうことは過去だけじゃない。今でもあることで、誰もが経験するかもしれないと思います。それを忘れないで覚えておこう、語り継ごうということはとても大事なことだと思います」
今も世界各地で繰り返されている差別や対立、そこから始まる戦争。
犠牲者の多くは、家族であり子どもたちであり、普通の生活をしている人たちだ。過去の教訓から学ぶべきことは、まだあまりにも多い。
(関西テレビ 益野智行)