80年前、大阪や神戸への空襲が激化した背景には、「サイパン島の陥落」が関係していることを、ご存じだろうか。
日本本土へ飛行機でおよそ3時間と近く、アメリカ軍にとっては攻撃の拠点にしたい島だった。
そのため激しい爆撃などがあり、多くの民間人も犠牲になった。
両親と多くのきょうだいを失った沖縄出身の87歳の女性は「戦争したらみんな木っ端みじん。戦争だけはやってくれるな」と呼びかける。
女性の姉の孫である、関西テレビのディレクターが取材した。

■アメリカ軍に追い込まれ、崖から飛び降りた祖母 「サイパン戦」は一体何が
マリアナブルーと呼ばれる青い海。おだやかな時間が流れるサイパン。
ここで、民間人を巻き込んだ激しい地上戦があった。
今回、取材を担当した関西テレビ報道の鉢嶺京子ディレクター(45)。
関西テレビ報道 鉢嶺京子ディレクター:私は、幼い頃、沖縄で祖母と一緒に暮らしていて、“サイパン戦”について何度も聴いて育ちました。祖母は、沖縄からの移住者が多かったサイパンで生まれ、爆撃の下を逃げ回った経験をしています。
大阪で働き始めて感じたのは、関西の人にとってサイパン戦は身近な話ではなく、約1万人が亡くなったことを知らない人もいます。
アメリカ軍に追い込まれ、崖から飛び降りる女性…祖母もこの崖から飛び降りた1人でした。
一体、この島で何が起きていたのか。
生存者が少なくなる中、「取材ができるのは今だけかもしれない」。そう思い、サイパンへ向かいました。

■サイパン戦の生存者 祖母の妹に話を聞きに行った
1944年、サイパンで起きた日本軍とアメリカ軍の激しい地上戦。
多くの沖縄出身の民間人が犠牲となった。
取材を担当した鉢嶺ディレクターの祖母は、サイパン戦の生存者。1996年に他界した。
鉢嶺ディレクター:来たよ~。
祖堅秀子さん(87):まずは食事にした方がいいんじゃない?
サイパンで、何があったのか。話を聞きにいったのは、祖母の妹・祖堅秀子(そけんひでこ)さんだ。
祖堅秀子さん(87):田舎の昔からの料理…ニガナと豆腐。おしいのよこれ。

■5歳の頃にサインパンの激しい地上戦に巻き込まれた87歳
秀子さんは、働きものでおちゃめな87歳。
両親が、当時日本の統治領だったサイパンに移住し、1938年に生まれた。激しい地上戦に巻き込まれたのは5歳の頃。
アメリカ軍は、この勝利をきっかけに、日本本土への攻撃を強める。
祖堅秀子さん(87):その時にわびておけば、沖縄に戦争もこない、広島、長崎にもこないですよ原爆は…。サイパンで負け戦って分かっているのに…。
秀子さんはことし、サイパンから沖縄に戻った人たちによる、「慰霊の旅」に参加した。
できるだけ、毎年行くようにしてきたが、コロナ禍などもあり今回は3年ぶりだ。
祖堅秀子さん(87):生まれ故郷に連れられていくのも感謝していますよ。自分の親、兄弟はあのとき若くして逝ってしまったから…。

■「サイパンに来れば親兄弟に会える」 山の中をはだしで逃げ惑う日々の壮絶な記憶
なぜ、サイパンを毎年のように訪れるのだろうか。
祖堅秀子さん(87):サイパンに来れば親兄弟に会えるなって思って。そういう思いでいつも。こっちに来ましたら、親兄弟がそばについているような感じがするんです。夜寝ていても、自分のそばにお母さんとかお父さん、それに兄弟がすがってきてるような感じがしてね。
サイパンは日本から飛行機でおよそ3時間と近い距離にあり、アメリカ軍は日本本土への攻撃の拠点にしたいと考えていた。
日本軍にとっては「国防の要」。
そして1944年6月、アメリカ軍がサイパンに上陸した。
7人兄弟の3女だった秀子さん(当時5歳)、山の中をはだしで逃げ惑う日々が続いた。
祖堅秀子さん(87):ここ川原あるんじゃない、水が流れている所。あの当時は、こういうきれいな道もない。(逃げていたのは)こっちらへんですよ。あの土手、この土手、みんな水をかぶかぶ飲みながら休んでるの。母親がおっぱいあげて座っている、そこを爆撃されたもんだから、(母親の)首は飛んでいても子供は胸にすがりついておっばい飲んでる、そういう情景はざらでしたね。
山の中で、母親(当時45歳)と兄(当時13歳)が、米軍からの爆撃で亡くなった。布をかけて置いてくるしかなかった。

■“バンザイクリフ” 米軍に追い詰められ…女性は子を投げ自身も飛び下りる
水場が近いことから「極楽谷」と呼ばれた野戦病院。弾薬なども、当時のものがそのままになっている。
草が生い茂る戦車などもあちこちにあり、戦争の跡が手付かずで残されたままだ。
秀子さんが捕虜となったのは、“バンザイクリフ”と呼ばれる場所。多くの人が身を投げた崖だ。
秀子さんはこの崖で姉と2人、安全な壕(ごう)を探しにいった父親が迎えにくるのを待っていた。
祖堅秀子さん(87):父は私よりふたつ上のねえねえ(姉)を連れていって、『その翌日は私たち2人を連れに来る』と言ったけど、翌日は戦争終わり、解除のサイレン。みんな白けむりで、木さえ見えないぐらいのけむりだった。けむりの中に父、姉、妹も一緒だったんじゃないかなと思う。それ以来、出てこないから…『お父さんはやく連れにきて』って右往左往で走って。
米軍に追い詰められた女性は、子供を投げた後、自身も飛び下りる。
こうした悲劇を目の当たりした。
祖堅秀子さん(87):こっちは血の海ですよ。どすんって飛んでくる潮水は血の色。海は血の色だけど、合間がないくらい人間が浮いてきて…大変だったですよ、戦争の海の景色は。

■一緒に海に飛び降りようと…「生きた心地がしなかった」と生存者
同世代の生存者にも出会った。
祖堅秀子さん(87):何歳でした?
仲兼久文政さん(87):あのとき7歳です。
母親に「平和なところにいくよ」と言われ、崖に行く途中に捕虜となった仲兼久文政(なかがねく・ふみまさ)さん(87)。
母親は、一緒に海に飛び降りようとしていたそうだ。
仲兼久文政さん(87):岩にね、みんなひっくりかえってる。死んでるんですよ、大人も子供もばあちゃんも。あれ見た時にね…、生きた心地がしなかった。
両親や兄弟の遺骨は、いまも見つかっていない。
鉢嶺ディレクター:骨を取りに来たり、墓を建てたてたりはしなかった?
祖堅秀子さん(87):どこで死んでいるか、誰の骨かも分からないですから。間違ったもの連れて帰るわけにもいかんし、御霊をまねいて、『一緒に帰ろうね』って石を持って帰って、お墓にいれました。いまは何もなかったように海もきれいです。

■慰霊の式典が行わる「おきなわの塔」 戦争での心の痛みは慰められない
統治時代、日本の教育をうけていたサイパン。戦後80年たったいまも、地元の人との交流は続いている。
地元の人との夕食交流会では、喜びや悲しみを分かち合うという意味もある沖縄踊り「カチャーシー」をみんなで踊る。

この日、秀子さんが一番行きたかった場所へ。
慰霊碑として1968年に家族の呼びかけで建てられた「おきなわの塔」だ。
祖堅秀子さん(87):来ましたよ~お父さんお母さん。生かされていれば、くわっち~(ごちそう)もたくさんあるのに…。
毎年、慰霊の式典が行われていて、3年前からは子や孫世代に引き継がれている。
雨が降っていた空は、みんなを迎えるように晴れた。
祖堅秀子さん(87):線香を一緒にたてよう。
そう鉢嶺ディレクターに声をかけた。
祖堅秀子さん(87):お父さんお母さん、武雄おにいさん、ヨネ子、トミ子ちゃん。きょうも来ましたよ。秀子来たよ。この時代まで生かされて感謝しています。来年も来るからね…。
鉢嶺ディレクター:一緒に線香あげられて良かったね。
祖堅秀子さん(87):どこの慰霊の塔に行こうと、涙、涙だ。こんなに悔しい事はない。
戦争での心の痛みは慰められることはない。

■「戦争だけはやってくれるな」 戦後80年、いま知ってほしいこと―
サイパンから沖縄に戻った秀子さん。
いまの楽しみは、畑での作業とその後の「ビール」だ。
戦後80年、いま知ってほしいこと―。
祖堅秀子さん(87):戦争したらみんな木っ端みじんですよ、お互いに敵、味方といわずね、だから戦争だけはやってくれるなと、それだけよ。気持ちを強くもってね…間違わなければ誤ったことしなければいいの。ビールは飲めるし…。
(関西テレビ「newsランナー」2025年8月12日放送)
