長崎への原爆投下から80年となる8月9日。

14歳で被爆し、現在、大分県大分市で暮らす94歳の女性もこの日を特別な思いで迎えました。

原爆で家族を亡くし、自身も後遺症を抱える女性に当時のことや今の思いを聞きました。

大分市の自宅で帰省してきたひ孫たちとの久しぶりの再会を喜んでいるのは、坂口和子さん94歳です。

幸せそうな表情を浮かべる坂口さんですが、80年前の8月9日の惨状は忘れることができません。

◆坂口和子さん
「長崎の慰霊祭を見てて、胸にぐっとくる」

1945年8月9日。

アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下。街は一瞬にして焼け野原となりました。

◆坂口和子さん
「パーッと強い光がして、光と同時に爆風が起きて私は何が起きたかわからなかった」

坂口さんは当時14歳。この時、すでに学校を卒業し、郵便局で働いていました。


職場は爆心地からおよそ2キロ離れた場所でしたが、原爆のすさまじい衝撃が伝わってきたといいます。

◆坂口和子さん
「先輩たちが窓口に座ったまま3人が血にまみれて爆風でガラスが吹き割れたものが体や首に刺さって、(別の)1人の方も血の海になったところに倒れて、書類も全部血に染まってしまって」


郵便局の近くにあった小学校の被害の様子です。

建物が壊れていますが、周辺に大きな衝撃がありました。

郵便局内にいた坂口さんも爆風で吹き飛ばされ、がれきの下敷きに‥

命を落とす同僚もいた中、通りかかった男性に助けてもらい、一命を取り留めたといいます。

自宅に戻れたのは1日半後。待っていたのは幼い妹と弟の2人だけでした。

◆坂口和子さん
「もうお父さんもお母さんもダメになっていると言った。下の弟と父は全身火傷で顔は鼻も口もどこにあるかわからないほど焼けただれて、見る影がないような姿になっていた」

坂口さんの自宅があった地区の様子です。爆心地からおよそ1キロで、職場周辺よりもさらに壊滅的な被害が。原爆は両親と当時6歳の弟の命を奪ったのです。

壮絶な経験をした坂口さん。戦後は熊本で結婚し、子宝にも恵まれました。

そして、数年前からは大分市に住む娘夫婦と一緒に生活しています。

家族たちと充実した日々を過ごせていますが、体には被爆よる関節痛などの後遺症が。

自分の体を蝕み、家族の命を奪った原爆。坂口さんは核兵器のない世界の実現を願っています。

◆坂口和子さん
「若い人たちがこういった目に遭わないように話していかなければと思って。これから先の若い人たちは戦争と核兵器のない静かな日本であってほしい」

テレビ大分
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