80年前の大阪空襲。犠牲者の中には朝鮮人も多くいましたが、記録はほとんど残っていない。
その理由は、「差別に苦しみ、自分のルーツすら語れなかったから」。92歳の在日コリアン2世の女性が、空襲で家族を亡くし、その後苦しんだ差別について語った。
「画集大阪大空襲の記録」に収められた絵には、次のような記述がつけられている。
空襲経験者の証言:『アイゴー、アイゴー』空襲がすんだあとの光景です。小川のむこう岸の家が爆風でひっくり返り、御主人が川面にうつ伏せになって浮いていました。奥さんや子供たちが『アイゴー、アイゴー』とただただ涙にくれていました。
大阪空襲被災者運動資料研究会 横山篤夫さん:朝鮮人は泣くときに『アイゴー』悲しみを示すときにそういう言い方をするんですね。それが日本人の生徒に印象に残って、こういう絵になって残った。朝鮮人のお父さんが死んじゃった。『アイゴーアイゴー』と泣いているのは印象に残ったんでしょうね。
大阪空襲の被害を後世に伝えようと活動する民間団体にとって、貴重な絵の一枚だ。
朝鮮人犠牲者の記録はほとんど残っていないからだ。

■朝鮮人の犠牲者は推計1000人以上とも なぜ記録は残されなかったのか
第二次世界大戦真っただ中の1940年ごろ。大阪市の人口320万人のうちおよそ1割にあたる、30万人が朝鮮人だった。
日本が朝鮮を植民地化した「韓国併合」以降、強制連行や生活難などで、多くの朝鮮人が日本に渡って来ていたのだ。
1945年、アメリカ軍の度重なる空襲で焼け野原と化した大阪の街。死者は1万5000人以上。
そのうち身元が確認されている朝鮮人犠牲者は166人だが、民間団体はほかにも1000人以上の犠牲者がいると推計している。
大阪空襲被災者運動資料研究会櫻井秀一さん:(日本人の)証言がたくさんあるのに、なぜ朝鮮人の証言がないんかなという、『ない』ということに気付いたわけですよね。そこから一旦なぜそういうのがないのかということを考え始めて。
空襲の証言などを記録したこの本にも、朝鮮人については、絵が1枚あるだけ。
なぜ記録は残されなかったのか。

■空襲で母親、兄、弟、妹を亡くした在日コリアン2世の末鮮さん
鄭末鮮(チョン・マルソン)さん(92)。在日コリアン2世で田中末子(たなか・まつこ)という通名を使ってこれまで暮らしてきた。
家族8人で大阪市東淀川区に住んでいた11歳のとき、空襲に見舞われた。
鄭末鮮さん:もう地球がひっくり返るようなすごい音というか。体で感じたっていうか。もうドーンと。あまりのびっくりで。人のワーッと行くほうについて行ってしまった。逃げ回って何かにつまずいたと思ったら死体。子供の死体。大人の死体。もう川を見ると暑さから水に飛び込んだんでしょうね、きっと。
逃げ惑う中、家族とはぐれてしまい、再会できたのは翌朝だった。
鄭末鮮さん:父親が2人おった下の妹を背負って、一軒一軒訪ねてきてくれて、『ここにいたのか』言うて。『お母さんと出会ってないのか』って。(家族)6人で一緒になって逃げてたのに、鳥居のところでドカンっていって、すぐにバラバラになってしまった。(父親は)鳥居のところにもういっぺん行ってみるわ言うて。帰ってきたときは『ダメやったわ』って。何も言わんと、ダメやったっていうことだけ言って。
空襲で、末鮮さんの母親、兄、弟、妹が亡くなった。

■戦後は在日コリアンであることを隠して生活もいじめに遭う
戦後結婚し、4人の子供に恵まれた末鮮さん。貧しい暮らしを支えるために働く中で、自身が在日コリアンであることは隠していた。
しかし、周囲には勝手に広まっていく。
鄭末鮮さん:(職場での)いじめがすごかったんです。子供のことで(仕事を)休んだりすると、『きのう田中さんが休んでたで、誰かがこんなこと言ってはったわ。きょうはお風呂田中さんがおらへんでな、臭い人あの人はおらへんで。ゆっくり入れるしええな』とか言うてたわけ。それを言うてくれなかったらまだ耳に入らないからいいんだけど、耳に入る」

■「差別に苦しみ、自分のルーツすら語れなかった」
大阪空襲の朝鮮人犠牲者の記録がほとんど残っていない理由。
差別に苦しみ、自分のルーツすら語れなかったからだと末鮮さんは言う。
鄭末鮮さん:戦争にあったっていうことを誰にも(言っていない)、子供も知らなかったんです。私の本名も知らんし、子供も。それぐらい隠してたんです。もうやっぱりいじめられて、嫌な目つきでみられる。そういうことが辛い。ほんで戦争の話しなかったのは思い出したくなかった。家族がそうして亡くなったっていうことを認めたくないのと思い出したくない。
(Q:朝鮮人被害者の記録が少ないっていうことはもしかしたら、もうお話しされないまま亡くなっちゃった方もいるかもしれない?)
鄭末鮮さん:いますよ、それはもちろん。
(Q:今でもまだしゃべりたくないっていう方も)
鄭末鮮さん:いますよ。

■「本名で生きたい」いまでは小学生に向けて体験を話すことも
末鮮さんは70歳を超えてから、やはり本名で生きたいと思うようになり、徐々に空襲のことも話すように。いまでは小学生に向けて体験を話すことも。
鄭末鮮さん:感想いっぱい書いてくれはるねんで、もうほんまに。もう一生懸命聞いてくれはるの。子供が。
戦後は学校に通えず、ずっと字が書けなかったがが、空襲のことを人に話せるようになってから習い始めた。
(Q:昔は書けなかった?)
鄭末鮮さん:もうそうよ。親ができんと、子供がしっかりしてくれるんよ。小さいころから。だからな、何とかやってこれた。今日まで無事に。
(Q:いいご家族に恵まれたんですね)
鄭末鮮さん:まあそういうことやな!ありがたいな。

■犠牲者名簿には本名ではなく通名で記載されている人も
東淀川区の寺では、毎年、大阪空襲の犠牲者を悼む法要が行われている。
祖父を亡くした、在日コリアン2世の金禎文(キム・ジョンムン)さん(86)。
犠牲者名簿を見たとき、祖父は、本名の金麗濬(キム・ヨジュン)(当時51歳)ではなく、通名の金谷富彦で記載されていることに気が付いた。
金禎文さん:通名がそういう名前だということも知らなかったわけ。創氏改名で奪っていったんですよ。自分の一番大事な、一つしかない自分の本名を奪われて。
いまは、本名で朝鮮人犠牲者として記録されている。
空襲について調べている民間団体はいま、朝鮮人の証言や記録を改めて収集し、本にまとめようとしている。80年もの“空白”を埋めるために。
(関西テレビ「newsランナー」 2025年8月13日放送)
