二等兵として日中戦争に従軍した小説家・井上靖。当時の出来事を克明に記した中国行軍日記から戦争を見つめます。
中国行軍日記より：
野戦病院は手足の腐りかかったものが400人もゐる由 人間は消耗品なりと 戦争は悲惨の極みだ
これは小説家の井上靖が日中戦争に従軍した際の出来事を記した日記の一部です。
北海道で生まれるも、父は軍医で転勤が多かったため1歳の時から祖母に預けられ伊豆市湯ヶ島の地で12年過ごした井上靖。
その後、浜松での生活を経て旧制・沼津中学に転入すると、妙覚寺に下宿しながら文学好きの友人たちとの交友を深めました。
妙覚寺・横山政遵 住職：
自由奔放に生活していたらしい。寺では。（井上が）友達と大瀬崎へ遊びに行くことがあり、曽祖父が句を詠ませた。「行くにあたりお前の気持ちを」と。そうしたら井上先生がパッと「いざ行かん」と言ったと。「いざ行かん」と言うものを行かせないわけにはいかないと。「じゃあ行ってらっしゃい」というエピソードがある
現在の京都大学を卒業すると、大阪毎日新聞に入社。
しかし、その翌年、日中戦争が勃発しました。
長泉町井上靖文学館・徳山加陽 学芸員：
井上靖が個人的につけていた日中戦争の時の日記。亡くなるまで本人が公開せず自分自身の身の周りに置いていた
中国行軍日記には出征した井上が二等兵として戦地を駆け巡り、その後、脚気を理由に除隊されるまでの出来事が克明に記されています。
中国行軍日記より：
10月11日4時 小雨で目覚める 河上には屍 山の様なりと その水で炊事した
中国行軍日記より：
10月19日 神様！1日も早く帰してください 行軍でない1日の幸福をきょうしみじみと味う
ただ、日常の何気ない出来事など戦争の悲惨や苦しさだけが書かれているわけではありません。
長泉町井上靖文学館・徳山加陽 学芸員：
（井上が）銃の部品をなくしてしまう。畑の中でなくしてしまって、その銃の部品がないと銃が使い物にならないので上官に怒られてしまう。しかし、部品が見つからない。困ってずっと探していると、他の部隊の人が一緒に探してくれたというエピソードがある。別の部隊で一緒に探してくれた人は何のメリットもない。見つかったとしてもその人が褒められるわけでもない。自分のために親切にしてくれる人がいたことをその場で感じた
井上靖の次女・黒田佳子さん（80）。
父から戦地でのつらい経験を聞くことはほとんどなかったと記憶しています。
井上靖の次女・黒田佳子さん：
本（中国行軍日記）を見た時にびっくりした。お父さん、本当にこんなに死体が転がっているところを歩いたの？と聞きたかった。父は確かに中国に行軍したが、その行軍が途中で途切れていることの引け目があったのではないか
父が見た景色や感じた思いを確かめてみたい。
その思いで10年前には中国を訪れ、行軍日記の記述を基に父の足跡を訪ねました。
井上靖の次女・黒田佳子さん：
城壁・城塞などの城の跡や盧溝橋などを全部見ながら、おそらく昔と同じじゃないかと、そこにいま日本軍が行軍していてもあまり不釣り合いではない、そんな印象で見た。日本軍が行軍した、父が行軍したということが現実味を帯びて感じられた
かつて父が銃の部品をなくし、見知らぬ仲間が探してくれた地・中国保定郊外では父が残した詩を読みました。
落日より：
落日が、石家荘南方の大平原を、赤く染めていた。立ち停まると田圃で働いている男女が集まって来、一緒になって、次々に現れてくる渡り鳥の群れを仰いだり、落日に眼を当てたり、時には銃声に耳を傾けたりした。いま思うに、私の全生涯に於いて、最も無防備な、併し、最も平安な何時間かであった。
父が行軍で感じたこと。
その本質は、戦争という極限の状態の中で触れた人間の温かさではないかと黒田さんは考えています。
井上靖の次女・黒田佳子さん：
どんな時にも父の目は人間の方に向いていた。人間の本性・人間が考えること、そちらに向いていたんだなと。父は実際に死体を見ている。悲惨な中で銃声も聞いている。その中で父が残したのは人の優しさや温かさ。本当に温かい。それを書き残したということは、父はそこに自分の視点を置いていたのだと思う
自らの経験を基に、その後、戦争の痛みや人を思いやる気持ちを小説という形で残した井上靖。
残された言葉は、現代を生きる私たちに平和の意味や在りようを問いかけています。
