太平洋戦争末期に日本軍が行った、搭乗員が命と引き換えに敵艦に突撃する特別攻撃、「特攻」。その特攻の初めての出撃を整備兵として見送った男性が高松市にいます。
終戦から80年、104歳を迎えた男性が語る戦争とは。
死にに行くのに…にこやかに「行ってくるぞ」という顔をした「特攻隊員」を戦闘機の整備兵として見送った
(多田野弘さん)
「彼らは死にに行くので、おそらくものすごく緊張しているであろうと思った。ところが全然緊張していない。むしろ、にこやかな顔で「行ってくるぞ」という顔だった」
高松市に住む多田野弘さん(104)。1944年10月、フィリピンの地で初めて行われた「特攻」を戦闘機の整備兵として見送りました。
(多田野弘さん)
「弾に当たって死ぬのは楽だが、自分から突っ込んでいくことは人間業ではできない。彼らを人間ではないと思った。すごいなと思った」
「フィリピンの土になろうと…生きることは考えなかった」激戦の最前線で多田野さんが撮影したのは隊員の笑顔
多田野さんが見せてくれた写真。そこには「特攻」の名のもとに国に命を捧げた若者たちの姿がありました。
(多田野弘さん)
「彼らはみんな、自分と同じ年齢。それが次々と爆弾を抱いて突っ込んでいく。自分も彼らの後から行きたいと思った」
1920年生まれの多田野さん。大阪の学校で技術を学んだあと1939年に横須賀航空隊に入隊、航空整備科の予備練習生となります。
その後、戦闘機の整備兵としてラバウル、サイパン、フィリピンなど激戦の最前線をくぐり抜けました。
(多田野弘さん)
「フィリピンの土になろうと思った。生きることは考えなかった」
そんな激戦地で多田野さんが撮影した数々の写真。笑顔を見せる隊員や地上に並んだ戦闘機など、当時の様子がありありと写し出されています。
「生きていることが不思議…」父親と創業した会社は業界の最大手企業に 死線をくぐり抜け、今も生き抜く104年の人生
そして1945年8月15日、終戦。多田野さんは宮崎県でその日を迎えました。
(多田野弘さん)
「ほっとした。とっくに死んでなければいけない自分が生きているということが不思議だった」
その後、高松市に戻った多田野さんは1948年父親とともに現在のタダノを設立。社長、会長を歴任しクレーンメーカーの最大手企業に成長させました。
そして迎えた戦後80年。
(多田野弘さん)
「戦争はもう絶対にやるべきではない」
数々の死線をくぐり抜け特攻隊員の凄絶な生きざまを目の当たりにした多田野さん。その言葉の一つ一つに耳を傾け続けなければなりません。