日航機墜落事故から40年となった12日、慰霊登山に臨む遺族の中に、芸人を目指していた当時21歳の弟を亡くした女性の姿があった。女性は「年がいけばいくほど、弟への思いが恋しくなる」と語った。
山の景色大きく変わり…「心安まる山になった」
乗客乗員520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から40年となった12日、81家族277人が慰霊登山に臨んだ。

そのひとり、小林由美子さん(66)は弟の加藤博幸さんを亡くした。
博幸さんは、21歳の若さだった。

弟を亡くした小林由美子さん:
年がいけばいくほど、弟への思いが恋しくなりますね。(Q.山の変化というのは感じますか?)穏やかになりましたね。最初は木も無く緑もなく、石が転がる中を登っていったんですが、時が経って木が生い茂って、草木の命を感じます。すごく心安まる、私は心安まる山になりました。

事故から40年。山の景色は大きく変わった。
事故から7日目…弟・博幸さんの遺体確認
1985年8月12日、羽田発大阪行きの日航ジャンボ機123便が群馬・上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。

乗客乗員520人が亡くなり、単独の事故としては航空史上最悪の事故だったが、事故から一夜明け、4人の生存者が救出される様子がカメラに捉えられていた。

奇跡の生存者がいると報じられた一方、小林さんの弟・博幸さんの遺体が確認されたのは、事故から7日目だったという。

約1時間かけ、小林さんは博幸さんの墓標に到着し、墓前に持参したひまわりの花を供えた。小林さんは「毎年ひまわりです。ひまわりのような弟だったので…」と話す。
中学生で素人参加のテレビ番組出演
お笑い芸人の道を志していた博幸さんは、中学生の頃から素人参加のテレビ番組に出演。
当時は、東京都内のショーパブのステージを中心に活動していた。

当時、博幸さんとコンビを組んでいた寺門史明さん(62)は、博幸さんについて「初めて会った人は、もう忘れないみたいな強烈なインパクトだったんです。海水浴とか行くじゃないですか。“寺門やろうぜ”っていきなりショーを始めるんですよ。その頃ちょくちょくテレビも出ていましたので、(周りの海水浴客も)何か見たことある奴だなと」と振り返る。

小林さんも「人を笑わせる子でした。陽気で、本当に陽気でした」と語る。

持ち前の明るさで夢に向かっていた博幸さんは、お笑いの本場を見たいと事故機に搭乗し、大阪に向かっていたのだ。

弟を亡くした小林由美子さん:
飛行機に乗る前に電話で“8月15日に帰るから、その時会おうね”っていうのが最後の電話…。いつか、ひょっこり帰ってくるんじゃないかみたいな。
大きくひしゃげた10円玉…40年向き合えなかった遺品を持参
博幸さんの突然の死を受け入れられなかった小林さんは、この40年、遺品と向き合うことが出来なかったという。

40年が過ぎた12日、小林さんが「持ってきたよ…」と手にした箱の中に入っていたのは、博幸さんの遺品だ。

財布に入っていた10円玉は大きくひしゃげ、墜落の衝撃を物語っていた。

小林さんは「40年間、手に取ることができなかった。この免許証を見た瞬間にやっぱり弟は乗っていたんだなって。きょう、ここに持って来られてよかったです」と涙を流したが、最後は「ひろちゃんがいつも言っていたように、また明日から笑顔を忘れないで頑張っていきます」と語った。

事故を風化させたくない…。その強い思いが込められた、40年目の慰霊登山だった。
弟を亡くした小林由美子さん:
どうか、もう私たちのような遺族を生んだりしないでください。
黒木瞳さん「40年という歳月が登る決意させてくれた」
慰霊登山では、犠牲者の一人・北原遥子さん(本名・吉田由美子さん)と宝塚歌劇団で同期だった俳優・黒木瞳さんの姿もあった。

黒木さんは「自分の中で認めたくないという思いと、本当に認めなきゃいけないんだなという思いがあって…。520人の方のお気持ちも慰霊も含めて、40年という歳月が決意させてくれたというか。登る決意をさせてもらったような気がします」と話した。
(「イット!」 8月12日放送より)