戦後80年の今年、ライブBBTは「戦争の記憶」を次の時代へつないでいくプロジェクトを進めています。
今週、シリーズでお伝えする「戦後80年、つなぐ」。
28日は、まもなく迎える8月2日の未明、多くの犠牲者を出した富山大空襲に思いを馳せます。
いまも県民の心に、富山の建造物に残る傷痕から私たちは、何を思い、何を未来につなげることができるのでしょうか。
築90年の富山県庁。
屋上に上がると、庁舎の屋根裏部分を見ることができます。
*県教育委員会 生涯学習・文化財課 松井広信さん
「この下が4階 大ホール」
80年前の富山大空襲で、庁舎の屋根を焼夷弾が直撃。
屋根裏にはその補修痕と、衝撃で曲がったとみられる骨組みが、今もそのまま残っています。
1945年8月2日未明。
アメリカ軍のB29爆撃機174機が飛来し、富山市中心部に、50万発を超える焼夷弾を投下。
死者は2700人あまり。
市街地の99.5%を焼き尽くしました。
その破壊率は、原爆が投下された広島・長崎を除く地方都市としては国内最大といわれ、人口比で最も多くの犠牲者が出たとされています。
あの日何があったのか。
今月中旬、富山市で開かれた「富山大空襲」展。
「富山大空襲を語り継ぐ会」などでつくる実行委員会が開き、民間団体によるこうした企画展の実施は県内で初めてとなりました。
実行委員長を務めたのは飯田恭子さん(87)、7歳で空襲を体験しました。
*飯田恭子さん
「(逃げ込んだ)神通川で、私がしゃがんで、祖母が四つんばいになって…『弾は上から落ちてくるもんだ、自分が受けてやろう』と(守ってくれた)。走ってくる間に寝てしまって。ポンと石ころが当たったと感じて、また寝た。それが焼い弾の破片だった」
焼夷弾で左肩に受けた大けが。
空襲の体験から、医師を目指しました。
今も残るその傷が、飯田さんの「原点」です。
*飯田恭子さん
「人間が起こす災難。戦争というのは。自然災害ではなくて。人間のやったことだから人間が予防することも可能なんじゃないか。物心ついてからの原点は空襲。だから医者になった。なかなか“社会の医者”になるわけにはいかないので、せめてこういうことをして、富山大空襲を知っていただく。戦争はどういうものかということも知っていただく」
空襲の傷痕が残る富山県庁。
焼失を免れた数少ない建物のひとつです。
当時、空襲の翌日から救護所として使われました。
焼夷弾が直撃したのは庁舎の4階。
現在、大ホールとして使われている部屋の屋根部分、当時は議場でした。
*県教育委員会 生涯学習・文化財課 松井広信さん
「(当時)宿直の方が、焼い弾が落ちた時に布団などで一生懸命消火したという話も。かなり大変だった、一生懸命(庁舎を)守ったと言えるのでは。富山市内だけでも戦前の建物は3棟くらいしか焼け残らなかったと。ある意味心の支えのようなものになったのではないかなと考えている」
今も残る、戦争の「傷痕」。
そこから何を思い、何を未来につなげることができるのかー。
戦後80年の今を生きる私たちに問いかけています。
*飯田恭子さん
「疑問を持つこと。そして調べる、知ること。知らずにいるということの方が罪になってしまう。せっかく存在している、生きているのだから。知ってほしい」