日本人選手として初めてメジャーリーグの殿堂入りを果たしたイチローさんが日本時間28日、表彰式典に出席し、約19分間、英語でスピーチを行いました。
雨のため1時間遅れで始まりましたが、時折、ジョークも交え、会場の笑いを誘いながらスピーチし、長年支えてくれた妻・弓子さんへの感謝の言葉で締めくくりました。
<以下、イチローさんスピーチ内容全文>
ありがとうございます(イチローコール)今日は人生で3度も経験することはないだろうと思っていた感覚を味わっています。
新人になるのは3度目です。最初は、1992年、高校卒業後、オリックス・ブルーウェーブで指名されたとき。
そして2001年に27歳でシアトル・マリナーズに入って再び新人となりました。今、ここで振り返るとロッド・カルーさん、ジョージ・ブレットさん、トニー・ラルーサさんのような偉大な方々がいらっしゃいます。
そうして私はまた新人になったのだと感じています。
このチームにあたたかく迎えてくださりありがとうございます。
私は、この殿堂が大切にしている価値をこれからも守り続けられる存在でありたいと願っています。
ただ、私も51歳なのでどうかお手柔らかにお願いします。
もうフーターズのユニフォームは着たくありません。
最初の2回のほうが、感情をコントロールするのが簡単でした。最高のレベルでプロフェッショナルに野球をするという目標をずっと持っていたからです。
しかし今回は、まったく違う気持ちです。日本で過ごした少年時代、野球の聖地で野球をすることになるとは想像もしていませんでした。ここが野球の聖地とも知らなかったのです。
私はよく記録で評価されます。
3000安打10年連続ゴールデングラブ10年連続200安打悪くないでしょう?(アリガトウ コール)でも真実は、私から野球を取ると、鈍い男だと言われるでしょう。
野球は単にヒットを打つこと、投げること、走ること、ではありません。
野球は、「何が大切か」について判断することの重要性を教えてくれました。
野球は私の人生観、世界観を築いてくれました。
子供のころは、一生野球ができると思っていました。
成長するにつれ、自分が愛する野球を最高でレベル45歳まで続けるには、自分を完全に捧げることが必要だと気づきました。
ファンが貴重な時間を使って見に来てくれているからにはそれに応える義務があります。
10点差で勝っていようとも、10点差で負けていようとも、開幕戦から162試合目まで同じモチベーションを維持することが自分の務めだと感じていました。
シーズン最終戦が終わるまでは、道具の片付けも荷造りも一切始めませんでした。
毎試合ファンの皆さんに全力で向き合うことが自分のプロとしての責任だと考えていました。
球場に来てくれるファンは楽しむ権利があります。
野球はプロフェッショナルでいるとは何かを教えてくれました。それこそが今日ここにいる理由です。
自分のスキルが優れているからではありません。そうした姿勢をもっていたからだと思います。
3000安打、1シーズンで262ヒットは記者によって評価された成果です。1人の記者を除いて。
ちなみにその1人を私の自宅での夕食に招待していたのですが、今そのオファーはもう期限切れです。(笑い)
記者の方々たちが19シーズンもの間、毎試合、細かい部分まで見てくれていたおかげで、数々の記録を達成できました。
個人的には毎日、道具に気を配っていました。グローブの糸がほどけていたせいでミスをしたり、スパイクを磨いていないせいでベースの上を滑ったりしたくなかったからです。
オフシーズン中もルーティンがありました。春キャンプが始まるころには体を整えていた。
マリナーズの解説者リックリズに「なんてこった! イチローのレーザービーム送球だ!」と言ってもらえるのを待ちながら小さなことをコツコツと続けていれば成し遂げられないことはありません.。
私を見てください、私は180cm、77kg。アメリカに来た当初、大きなメジャーリーガーと戦うには細すぎると言われいました。
フィールドに初めて出たとき周りに圧倒されたが、自分の「準備」に対する信念を大切にすれば自身ですら持っていた疑念を乗り越えられると信じていました。
チームにできる最大のことはなにかと聞かれると自分に責任を持つことだと答える、自分の責任を果たすことは自分に向き合うということなのです。
夜、帰宅して、なぜヒットが打てなかったのか、なぜ球が捕れなかったのか自問したとき、その正直な答えは投手が手ごわったからでも、太陽がまぶしかったからでもなく、単にもっとうまくできたはずだから、である。
自分の責任を果たすことでチームメイトをサポートできるし、ファンをがっかりさせないですむ子供のころから夢はプロ野球選手でした。小学校6年生のころ作文を書いたくらいです。
今の経験をもって、もし書き直せるなら「夢」という言葉のかわりに「目標」という言葉を使います。
夢は必ずしも現実的とは限らないが、目標は、それをどう達成するかを深く考えれば実現可能になります。
夢は見るのは楽しいが、目標に向かうのは困難で、挑戦が伴います。
「これがやりたい」というだけでは不十分です。本気で何かを成し遂げたいなら、それを達成するために必要なことを批判的には考える必要があります。
私はその日「プロの選手になるには、練習と準備が大切だ」と書きました。
目標を設定し続ける中で、私は「継続こそが成果の土台である」ということも理解するようになりました。
私は若い選手たちに、夢を持つこと、そして大きな夢を持つことを勧めます。同時に、「夢」と「目標」の違いを理解することも大切だと伝えたいです。
夢を目標に変えるには、それを達成するために何が重要かを、正直に考える必要がありますあの作文の中で、私は「地元の中日ドラゴンズでプレーするのが夢だ」と書きました。
当時はアメリカの野球のことなど何も知りませんでした。
私はただ野球が大好きで一生、最高レベルでプレーがしたいと願っていただけでした。
その目標の一歩は、オリックスにドラフトで指名されたことで叶いました。
新人時代、そして、そのあとも毎年、首位打者を獲得しました。
外から見ればすべてが順調で、何の不安もないように映ったかもしれません。
しかし、心の中では「なぜ自分が結果を出せているのか」がわからず、悩んでいました。
自分の中では答えが見つけられない何かを苦しみの最中で探し続けていたのです。
私が心の葛藤の真っただ中にいたころ、歴史的な出来事が起きました。
野茂英雄さんが私の人生の中で、はじめてメジャーリーガーになった日本人だったのです。彼の成功は多くの人に、そして私にも大きな刺激を与えてくれました。彼のおかげでMLBは日本でも連日ニュースになり、試合がテレビで放送されるようになりました。
野茂英雄さんの勇気のおかげで、私は「想像していなかった場所に挑戦する」という発想を持てるようになったのです。(日本語)野茂さんありがとうございました。MLBに挑戦することを許してくれたオリックス・ブルーウェーブに心から感謝しています。
そして日本人初の外野手としてメジャーリーガーでやっていけると信じてくれたシアトル・マリナーズにも感謝しています。
それ以来、シアトルとマリナーズに魅了されています。
シアトル、ありがとうこのすばらしい名誉のおかげで、私を契約してくれたゼネラルマネジャー、パット・ギリックさんと再会できたことをとてもうれしく思います。当時のオーナーや経営陣、山内ひろさん、ハワード・リンカーンさん、チャック・アームストロングさん、そしてマリナーズのチームの皆さん、そして現経営陣のジョン・スタントンさん、ジェリー・ディポトさん、ケビン・マルティネスさん、そのほかのすべての方々に感謝します。
私を帰るべき場所に呼び戻して、シアトルを私の永遠の故郷にしてくれたことに感謝します。
エドガー、グリフィー・ジュニア、ランディといった偉大な仲間たちと新たなチームの一員になれたことを光栄に思います、今日は来てくれてありがとう。ニューヨーク・ヤンキースの皆さんに感謝します。今日はCCのためにここに来ていることは知っています。
でも大丈夫です。彼はあなた方の愛を受けるのにふさわしい。私はヤンキースのユニフォームを着て過ごした2年間を心から楽しみました。
デレク・ジーターの偉大なリーダーシップ、そしてヤンキースという球団の誇り高き文化を経験させてくれたことに感謝します。
そして、マイアミ・マーリンズの皆さんへ、今日この場に来てくれたデビッド・サムソンとマイク・ヒルにも感謝しています。
正直に言うと、2015年に契約のオファーをいただくまでチーム名を聞いたこともありませんでした。
でも南フロリダで過ごした時間を私は心から楽しめました。
40代半ばになってもあの若く才能あふれるチームメイトたちに囲まれて私は選手としてさらに成長することができました。
コロラドで通算3000本安打を達成したとき、彼らがダグアウトから飛び出してきて、
心から喜んでくれたあの瞬間は、私にとって決して忘れることのできない思い出です。
あの瞬間をともに喜んでくれた彼らの笑顔は、本当に純粋で心からのものでした。
マーリンズの一員として、そして彼らと一緒に3000安打に到達する機会を与えてくれて本当にありがとうございました。
私の代理人たちへ。あなたたちの存在は単なるビジネス以上の意味を持っていました。
残念ながらトニー・アタナシオはこの瞬間を知る前に亡くなってしまいました。
私をアメリカに連れてきてくれたこと、そしてワインを愛することを教えてくれたことに感謝します。
そして私が42歳でもまだプレーできると信じてくれてくれて、以来ずっと私のキャリアに情熱を注ぎつづけてくれているジョン・ボッグスにも感謝します。長年にわたり私の通訳を務めてくれたアラン・ターナー、そしてその家族にも感謝します。
私がどこでプレーすることを選んでも、いつも支えてくれました。
ジェーン、ジョシュ、セスター、ホイットニー、そして殿堂スタッフの皆さん、もちろんジェフ・アイデルソンさんにも感謝申し上げます。
みなさんがいなければ、私はこのすばらしい殿堂という存在の価値を知ることができなかったでしょう。
CC、ビリー、デイブ・パーカー、ディック・アレン、フレッド・マグリフ、トーマス・ボズウェル、おめでとうございます。
私がMLBで日本人初の野手として挑戦することを決めた時、多くの疑念があったことは皆さんも想像できるかと思います。
批判や否定的な声もたくさんもありました。
日本に恥を晒すなと言われたこともあります。
最も支えてくれたのは妻の弓子です。彼女にも不安や疑問はあって当然だったはずですが、彼女は一度もそれを私に感じさせたことはありませんでした。
彼女のすべてのエネルギーは、私を支え、励ますことに注いでくれました。
シアトル、ニューヨーク、マイアミでの19シーズン、彼女は常に家庭が明るく前向きな場所であるようにしてくれました。
私は安定した選手でいることに務めていましたが、妻こそ、私が知る限り最も安定したチームメイトです。
引退してまもなく、妻とデートナイトを過ごしました。現役時代には一度もできなかった、観客席に座り、マリナーズの試合を一緒に観戦するということを楽しみました。ホットドッグを食べながら、まさにアメリカ流の観戦をしました。
野球を通じて得たあらゆる経験の中で、この瞬間にたどり着くまで最も支えてくれた人と、球場でホットドッグを食べながら試合を楽しめたこと、それこそが何よりも特別な経験でした。
アメリカで殿堂入りすることが私の「目標」であったことはありませんでした。
2001年に初めてクーパーズタウンを訪れるまで、殿堂が存在することすら知りませんでした。
でも、こうしてこの場にいることは、すばらしい夢のような気持ちです。
ありがとうございました。