地下に眠る かつての脅威
沖縄本島の西海岸、恩納村の丘の上。現在は創価学会の研修施設として使われているこの場所に、かつて世界を破滅させる力を秘めた核ミサイル発射基地が存在していたことを知る人は少ない。
冷戦期、アメリカとソ連が世界の覇権を巡って対立していた時代。沖縄には最大で1,300発もの核兵器が持ち込まれていた。その中のひとつ核ミサイル「メースB」の発射施設がこの地にあった。

冷戦の記憶が残る地下施設
現在は非公開の地下施設に、米軍が使用していた核ミサイルの発射ボタンがある制御室が当時の姿のまま保存されている。
施設は左右に分かれたAエリアとBエリアにそれぞれ4基、合計8基のミサイルを制御する構造。壁面には英語の標記がそのまま残り、冷戦時代の緊張感が伝わってくる。
配備されていた「メースB」は広島に投下された原爆の70倍の破壊力を持つとされた。アメリカ軍は有事に備え即応できる体制を構築していた。

核の島だった沖縄
琉球大学の我部政明(がべ・まさあき)名誉教授はメースBの配備は1960年代初頭、米ソの核開発競争が激化した時期と重なると指摘する。
1952年、日本がサンフランシスコ講和条約によって主権を回復する一方で沖縄は米国の統治下に置かれた。1956年の「プライス勧告」では米国が沖縄に核兵器を自由に貯蔵・使用できることが明記され日本政府の関与を排除する内容となっていた。
長距離ミサイルの開発が遅れていた米国は沖縄を中距離ミサイルの前線基地と位置づける。1961年にメースBが配備され、ソ連の一部や中国全土を射程に収める体制が整えられた。

知らぬ間に動員された沖縄の人々
核ミサイル基地の建設には地元の住民も動員された。米軍はその内容を秘匿したまま巨大なコンクリート構造物の建設を進めた。建設に携わった人々もその施設が何のためのものかを知らされることはなかった。後に米メディアによってメースBの性能が報じられ、沖縄での工事の実態が徐々に明るみに出ていった。

米軍は沖縄県民の土地を強制的に接収し、14のミサイル基地を建設。1962年のキューバ危機の際には沖縄のミサイル基地が臨戦態勢に入ったとされる。島の人々は知らぬ間に核戦争の最前線に置かれていたのだ。

「核抜き」の裏に密約
1969年、日米両政府は沖縄の本土復帰に合意。「核抜き・本土並み」を掲げ、核ミサイルは撤去されることとなった。しかし、のちに米国が必要とする場合には再び核を持ち込むことを日本政府が黙認する「密約」が交わされていたことが明らかになる。
我部名誉教授は「日本政府にとって、沖縄の基地が核戦争に使われる可能性は想定内だった。米国の意向を受け入れることが国益とされ、基地使用は問題視されなかった」と指摘する。

沖縄 今も大国の狭間で
現代の沖縄では南西諸島への自衛隊配備が進むなかで基地負担が増し続けている。我部名誉教授は「日本本土の人々は沖縄に基地を押しつけたことで、自分たちは安全保障を享受できていると考えている」と語る。
かつて核ミサイルの島として世界の緊張の一端を担わされた沖縄。その構造は、戦後80年を経てもなお変わっていない。同じ過ちを繰り返さないためにも、
(沖縄テレビ)