生涯、白球に愛され続けた“ミスタープロ野球”こと長嶋茂雄さん。

3日朝午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。
89歳でした。

その後、遺体は午後、自宅へ。
ミスターの訃報は日本各地を悲しみに染めています。

3日朝、肺炎のため亡くなった読売巨人軍・終身名誉監督の長嶋茂雄さん。
「やきゅう」と読める89年にわたるその生涯は、自身の活躍がそのままプロ野球を国民的なスポーツに押し上げ日本に勇気を与え輝き続けました。

長嶋さんの名前が最初に知られるようになったのは、立教大学時代。
東京六大学野球の通算ホームラン記録を樹立し一躍“神宮の星”に。

そして1958年背番号3をつけ、巨人軍に入団。
巨人の4番サードに長く君臨し、首位打者6回、ホームラン王2回、打点王も5度獲得。

4歳違いの王貞治さんと“ONコンビ”を組み巨人のV9をけん引しました。

そして、記録だけではありません。
華麗な3塁守備やヘルメットを飛ばしての三振など、記憶にも残るプレーを披露。

その存在は“ミスタープロ野球”と呼ばれ全国の野球ファンを魅了しました。

「きょう引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です!」という言葉を残し、現役を引退。

その後、巨人の監督を2期15年にわたり務めた長嶋さん。
特に、2期目の監督時代にはドラフト会議で松井秀喜さんを引き当て、1994年には長嶋監督自ら国民的行事と呼んだ、勝ったほうがセ・リーグ優勝という中日とのシーズン最終戦決戦に勝利。

プロ野球史に残る勝利のあと、日本シリーズも制し監督として初の日本一に。
その後も大逆転で優勝をつかんだ“メークドラマ”の名言や、監督でも背番号3をつける姿などさまざまなシーンを残し、巨人の監督を退任しました。

その会見では「野球とは人生そのものだという一言に尽きると思います」という言葉を残しました。

2002年にはアテネオリンピックの日本代表監督に就任。
金メダルを目指しチームを率いていましたが、本大会を前にした2004年3月、脳梗塞に倒れアテネの地での指揮を断念。

それでも右半身のまひが残る中、不屈のリハビリで再びファンの前に姿を見せました。

2013年には、野球史上に数々の輝かしい功績を残したとして、愛弟子の松井さんとともに国民栄誉賞を受賞。
東京ドームで行われた表彰式のあと、松井さんの投げたボールを左手1本で打とうとする姿に東京ドームは大いに沸きました。

2025年3月には日本でMLB開幕戦を迎えるロサンゼルス・ドジャースも大谷選手のもとを訪れ激励するなど、最後までその勇姿をファンの前に見せ続けました。

そんな長嶋さんが残した数々の伝説を実際に体験した人物とともに振り返ります。

青井実キャスター:
長嶋茂雄さんについて、ここからは三宅さんとお伝えしていきます。三宅さんは監督時代は野球実況だったり、キャンプ取材もされてたわけですよね。

三宅正治キャスター:
監督にいろんな取材であったりインタビューであったり大変、お世話になったので今日、一報を聞いた時は本当に寂しい思いになりましたが、こういうニュースをお伝えしなきゃいけない、いつかは来ると思っていましたがさみしいですね。この長嶋茂雄さんミスタージャイアンツではなく“ミスタープロ野球”と呼ばれた、まさにプロ野球の象徴であったそんな方でした。

最後まで貫いていたのが“魅せる野球”だったんですね。ホームランだけではなくて三振でもファンを魅了するという、そういった方でした。

ヘルメットが飛ぶほどの豪快なスイング。長嶋さんがおっしゃっていたのは、たとえ結果が三振だったとしてもお金を払って見に来てくれたファンを喜ばせたい、楽しませたいんだということをおっしゃっていました。三振でもかっこいい選手ってあとにも先にも長嶋さんだけだったかなと思いますね。

そして4番サード、長嶋。サードの守備でも魅せましたよね。ゴロを守備する時に軽やかなステップで1塁に投げる投げる方向、ファースト方向に手を伸ばす。これが当時の野球少年みんなまねをした。そして最後手をピラピラピラっと。これを歌舞伎の見得(みえ)であるとか、そういった動きから取り入れたというお話を昔聞いたことあります。真偽は定かではないです。そんな話を聞いたこともあるぐらいです。

青井実キャスター:
野球界レジェンドといわれる方たくさんいますけども、「ミスター」と呼ばれるのは長嶋さんだけですよね。例えば、天覧試合でのサヨナラホームランとかそういうのもありましたし、11.5ゲーム差をひっくり返した「メークドラマ」などありますけどね。

三宅正治キャスター:
そういった言葉を長嶋さんが発信されたということでね。いまだに新鮮に残っているからすごいなと思いますね。

青井実キャスター:
若い世代にも伝わりますもんね。

小山内鈴奈キャスター:
私も野球は全く詳しくないんですが、そんな私でもテレビで何度でも拝見してますし。

三宅正治キャスター:
選手時代はもちろん監督時代もファンに見せるということを常に考えていらっしゃって、特に象徴的なのは2000年のキャンプなんですね。ここでは背番号3のユニホームを引退以来、初めて披露する。26年ぶりに背番号3が見られるということでキャンプ初日から報道陣やファンは大変。いつ「3」を見せるかという。キャンプが始まって12日目だったんです。

だからカメラマンは12日間ずっと追い続けて、早く脱いでくれっていうぐらいだったんですがでも、そのタイミングも土曜日の、観客がすごく多いさあ、これからノックというところで背番号3でノックを始める長嶋監督というシーンでしたね。

青井実キャスター:
監督になっても、こうやって魅せるっていう野球の面白さですよね。三宅さん、長嶋さんと直接お話になって印象に残っているエピソードってあります?

三宅正治キャスター:
ごはんをご一緒したことがあって、というのが監督時代オフになると各局のスポーツ番組のキャスターを集めて食事会を開いてくださったんです。こんなことまでしてくださる監督ってなかなかいなくて、我々、本当にうれしくてドキドキしながら会場に行ったものですけども。

でも、そこで監督はそのシーズンの話をいろいろとしてくださったり、あるいは昔話をずっとしてくださってその時の表情が、本当に優しくてかわいらしくて。この方は本当に野球が大好きなんだろうなと思いながら、本当に野球の話をするのが楽しくてしょうがないということ、我々にいろんなことを教えてくださって。あの食事会は忘れられない。

監督行きつけの高級中華料理店で上海ガニを食べながらという。ただ、その味よりも監督のお話のほうがすごく思い出に残っていますね。

グラウンドでは厳しい表情をすることもありましたけれど、もそういった我々と接する時は本当に優しい表情で接してくださって、メディアを本当に愛してくださった、本当にメディアを大事にしてくださったということも我々は本当に恩を感じている、そんな方でしたね。

青井実キャスター:
山口さん、どうですか。野球をより身近にしてくださった方ということですかね。

SPキャスター・山口真由さん
難しい球を簡単にとってこそプロという哲学に対して、華やかにとってこそプロという言葉を体現されて、野球を娯楽の王様に押し上げた方だなという印象がありますね。

フジテレビ
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報道スポーツ部
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