戦火を生き抜いた声楽家が94歳の今も歌い継ぐ平和への願い。富山空襲から80年、その記憶を音楽にのせて次世代へ伝えようとする男性がいる。

「私はモグラと同じ生活をしていた」〜二度の空襲を生き抜いた94歳の声楽家

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富山市に住む浅岡節夫さん(94)は、今も現役の声楽家として活動を続けている。かつて高校の音楽教師だった彼の自宅には、教え子たちで結成したコーラスグループ「浅岡会」のメンバーが集まり、来月のコンサートに向けた練習に熱が入る。

このコンサートには特別な意味がある。それは戦後80年という節目の年に、浅岡さん自身が体験した戦争の記憶を音楽にのせて伝えることだ。

浅岡さんは14歳の時に東京で大空襲を経験し、その後疎開した富山でも再び空襲に見舞われた。富山大空襲は1945年8月2日未明、アメリカ軍の爆撃機「B29」174機が富山市上空に現れ、2時間にわたり50万発を超える焼夷弾を投下した。

「空襲警報が鳴った、鳴ったら、もう落ちていた…ぱっと飛び起きたとたんに寝床に焼夷弾が落ちた。逃げようにもそこら見渡すともう、もう燃えているから、布団をかぶって、水かけた布団を。逃げた先が神通川」と浅岡さんは80年前の記憶を鮮明に語る。

真っ黒焦げの遺体が横たわる街〜富山大空襲の惨禍

富山市の中心市街地は一面焼け野原となり、11万人が被災し、2700人を超える命が奪われた。浅岡さんが見た光景は壮絶だった。

「焼け跡はかちゃかちゃ、普通の家屋は全焼しているから全くなにもない。家族が三々五々焼け跡を整理するために帰るが、その前に焼けた人を見て、私も見た…真っ黒こげで、ああこれは何ちゃんだ、何ちゃんだって。そういうのが焼け跡の現状でした」

この体験は浅岡さんの心に深く刻まれた。終戦後、彼は音楽教師の道に進み、富山県内の高校で教鞭を取った。引退後も10年以上にわたり、教え子たちと「浅岡会」で声楽を続けている。

「土の歌」で平和を祈る〜戦争体験者の願い

戦後80年の節目となる今年、浅岡さんが選んだのは「土の歌」という曲集だ。原爆や反戦、大地への祈りが込められたこの曲集に、浅岡さんは特別な思いを込める。

「そうなんです、何にもわからないですよ、歌詞を見たって。でも私はそれをもっと深く説明するんです。その若い子たちにね、若いって言ったって70くらいですからね、若くはないんですけど。私にとっちゃ、戦争を知らない人間はみんな若い」

練習の合間、浅岡さんは自らの体験を交えながら歌詞の背景を語る。「"日の目も見ないもぐらもち、それでもお前は幸せなのか"、とかね言いますわ。私は、モグラと同じ生活をしていた。というのは防空壕というのが各家庭にもあった」

教え子たちはその言葉を胸に刻む。「兄弟を戦争でなくされているとか、空襲にあったという話を練習の合間に生々しく聞いて、自分が体験したわけではないけどそういうことはあってはいけないと」と一人の教え子は語る。

別の教え子は「音楽の力を借りて歌詞を歌い、どういう理由で(歌詞が)…出てきているのかということを先生の体験から教えてもらって、表現し、歌にのせていけるかなと思っている」と話す。

歌うことが生きる力に〜94歳の声楽家の情熱

「もう戦争を思い出すことしかできないんですよね。私はこの曲の歌詞を読むだけで、もういたたまれなくなりますよ」と浅岡さん。

戦後80年経った今、歌を歌える平和の幸せを噛みしめているかと問われると、「そりゃそうです。だから続くんです。私、94になりました。それを支える浅岡会があるから、やらなくちゃならないことを追っかけているうちに、生きてきた、生きがいを感じる。それで持ってる」と答えた。

戦争を体験した94歳の声楽家と、その記憶を受け継ぐ教え子たち。平和への祈りを込め、浅岡さんたちは歌い続ける。浅岡さんが指揮する「浅岡会」2025夏のコンサート富山空襲80年平和を祈る」は、6月22日に富山市の県教育文化会館で開かれる。

富山テレビ
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