俳優丸山定夫と桜隊の青春

愛媛県の松山市総合コミュニティセンターに残る胸像。
戦時中「桜隊」という移動演劇で活躍した松山市出身の俳優、丸山定夫を偲んだものだ。今年は戦後80年、この碑が届けたい平和への思いとは。

松山市出身の俳優 丸山定夫の胸像
松山市出身の俳優 丸山定夫の胸像
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移動演劇「さくら隊殉難碑」

世界中から多くの人が訪れる「広島」。
平和大通りにある「移動演劇さくら隊殉難碑」は原爆で亡くなった劇団員をしのんで建てられたもの。碑の最初に刻まれている俳優の名前は松山市出身の丸山定夫だった。

最初に刻まれている俳優の名前は丸山定夫
最初に刻まれている俳優の名前は丸山定夫

映画なんかは封切られたら喜んで見に行った

丸山定夫の同僚俳優の孫である眞山蘭里さんはこう語る。
「丸山定夫さんという俳優が素晴らしかったということは聞いてます。ガンさんガンさんって言ってましたから」
また丸山定夫の姪・澤田静江さんも俳優をしていた丸山定夫をこう記憶している。
「映画なんかは封切られたら、私は子供ですけど連れて行ってくれて、喜んで見に行ってました」

ガンさんガンさんって言ってましたから
ガンさんガンさんって言ってましたから

「新劇の団十郎」とも呼ばれていた

明治34年、1901年に松山市で5人きょうだいの4男で生まれた定夫。
舞台俳優として活躍し、定評のある演技は「新劇の団十郎」とも呼ばれていた。

丸山定夫の姪、澤田静江さん(91)は、定夫との思い出をこう語る。

「(定夫は)とても親孝行な人だったのでいつもお小遣いを送ってくれていたようです、祖母に。息子から書留なんか来たら祖母は喜んで私を連れてデパートに行って私にもおもちゃを買ってくれたり、そういうのはありました。」

定夫との思い出をこう語る
定夫との思い出をこう語る

広島の繁華街、新天地の劇場で初めて舞台にたった

定夫は大正12年、1923年に広島の劇団「青い鳥歌劇団」に入り、広島の繁華街、新天地の劇場で初めて舞台にたった。

戦前の地図には劇場が並ぶ。「帝国座」が定夫がデビューした劇場。
祖父が新天地の開発に携わったという永井健二さんはこう語る。

「劇場がこのあたりだけで5つ6つあったみたいです。新天座とか泰平館とかは当然有名なところですけど」

現在はパルコやお好み村などで賑わう場所だが、劇場の名残はない。

祖父が新天地の開発に携わったという永井健二さん
祖父が新天地の開発に携わったという永井健二さん

定夫は「築地小劇場」に出会い舞台の傍ら映画にも出演する

その年に発生した関東大震災からの復興を目指して劇団の一行は上京。そこで定夫は新劇の劇団「築地小劇場」に出会い、舞台の傍ら映画にも出演するようになる。

同じ松山市出身の映画監督、伊丹万作の作品にも出演。

定夫が母親にあてた手紙にはこうある。

「母へ松山の薄墨ようかん、有難うございました。伊丹さんと云う、今は病気で休んでいる立派なカントクさんに分けて上げてよろこんで頂きました。」

築地小劇場
築地小劇場

当時の俳優の登録証明書

しかし日本が太平洋戦争に突入すると、国の許可なく芝居ができなくなる。
ここに当時の俳優の登録証明書が残されている。

登録証明書に名前が残る園井恵子は、定夫と同じ劇団の俳優。
宝塚歌劇で三枚目の母親役から老婆役までこなす演技派として活躍し、松山出身の伊丹万作が脚本を書いた映画「無法松の一生」にも出演した。

園井恵子は定夫と同じ劇団の俳優
園井恵子は定夫と同じ劇団の俳優

移動演劇「桜隊」で各地を巡る

戦争が激しくなった昭和20年、演劇を続けるには国威発揚を目的に各地を慰問する移動演劇隊に加わるしかなく、定夫も「桜隊」と呼ばれる移動演劇で各地を巡ることになった。「桜隊」の行先は広島だった。

「桜隊」の行先は広島
「桜隊」の行先は広島

定夫は広島へ向かう際に母に会いに立ち寄った

丸山定夫の姪、澤田静江さん(91)は、広島へ向かう定夫が当時、母に会いに立ち寄ったと言う。

「駅まで行くのに私の母親と私と定夫の3人が歩いてましたら、定夫がちょこちょこっと先に行って何処かへひょっと隠れて、そういう私たちを喜ばせるようなひょうきんなことをしてくれたのを覚えています。」「広島へ行くけれど自分もそれが母親に会う最期になるとは夢にも思っていなかったと思いますから」

定夫が母親に会う最期になるとは思っていなかった
定夫が母親に会う最期になるとは思っていなかった

定夫は俳優人生をスタートさせた場所に帰ってきていた

移動演劇「桜隊」の宿舎は広島市中心部の堀川町にあった。

その場所は定夫が22年前にはじめて舞台に立った劇場のすぐそば。
期せずして定夫は俳優人生をスタートさせた場所に帰ってきていた。

移動演劇「桜隊」の宿舎は広島市中心部の堀川町
移動演劇「桜隊」の宿舎は広島市中心部の堀川町

定夫は終戦翌日の8月16日に原爆症で亡くなる

そして運命の1945年8月6日を迎える。

桜隊は爆心地から約750mにある宿舎で被爆。宿舎にいた9人のうち5人は即死。
定夫は一命は取り留めたものの終戦翌日の8月16日に原爆症で亡くなった。

44歳だった。

44歳の早すぎる人生
44歳の早すぎる人生

我々のやりたい芝居がこれからやれますよ

広島市公文書館に残された資料。

定夫の最期をみとった隊員の手記には、終戦の知らせを聞いた定夫の言葉が記されている。

「これで日本は良くなりますよ。我々のやりたい芝居がこれからやれますよ。いい芝居やりましょう」

「いい芝居やりましょう」
「いい芝居やりましょう」

槇村はその最期をこう書き残している

東京・八王子の劇団で座長をつとめる眞山蘭里さん。桜隊の俳優だった槇村浩吉の孫にあたる。

丸山定夫の最期を看取ったのが槇村。
槇村はその最期をこう書き残している。

「赤ん坊が布団から這い出して眠ってしまったように、手を前に伸ばして、うつぶせの姿勢だった。」
「丸山さんはやっぱり、芝居なしじゃ生きていけなかったんでしょうね、きっとまわりの方々もそうですよねきっと、一緒に桜隊で亡くなられた方々っていうのはやっぱり多かれ少なかれ、芝居なしじゃ生きていけないよみたいな」

「芝居なしじゃ生きていけないよ」
「芝居なしじゃ生きていけないよ」

原子爆弾症の第一号患者のカルテ

「臨床的診断、四肢爆創、原子爆弾症と書いてあります。」

医師によって診断された原子爆弾症の第一号患者のカルテ。
患者の名前は仲みどり。定夫と一緒に被爆した桜隊の俳優である。

仲さんは被爆後、東大病院を受診。当時の記録が残されている。

国立健康危機管理研究機構・國土典宏さん:
「仲みどりさん、この方は8月6日に被爆して8月16日に入院してるで24日に亡くなっている。入院してからどんどん悪くなって死亡されたことが想像されるんですが、それに都築教授は驚いて直ちに調査をしなきゃいけないということでこれによると8月30日に広島に教室員数名と一緒に調査に行ったと、そういう記録がのこっています。」

桜隊の被爆が、貴重な記録としていまに残されている。

患者の名前は仲みどり
患者の名前は仲みどり

丸山定夫の胸像

松山市総合コミュニティセンターにある丸山定夫の胸像。
胸像の作者はこう残している。

「左手は己が鼓動を、右手は遺された我々の心の安らぎと平和の為、前に差しのべられている」

原爆で命を落とした定夫の胸像には、平和への思いが込められている。

左手は己が鼓動を、右手は遺された我々の心の安らぎと平和の為、前に差しのべられている
左手は己が鼓動を、右手は遺された我々の心の安らぎと平和の為、前に差しのべられている
テレビ愛媛
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