クラブ設立から30年、ヴィッセル神戸は名実と共にJリーグの頂点に君臨している。
そこに受け継がれてきた“魂の歌”。被災した街とクラブの姿を重ねて歌う「神戸讃歌」だ。
震災の日に幕開き

1995年1月17日、兵庫県南部で起きた阪神・淡路大震災から30年。追悼の日の同時刻に黙祷を捧げる選手たちの姿があった。

武藤嘉紀:
多くの犠牲があった中で神戸という地でサッカーをやらせていただいて、普通にサッカーをやっていることが幸せだということを改めて感じました。

観測史上初めて記録した最大震度7。6,434人の命と日常が失われた震災の日、サッカークラブのヴィッセル神戸は、まさにこの日に幕開きをした。
本当であれば1月17日にチーム発足後初めての練習が行われる予定だったが、それは実現せず。チームは一時岡山に逃れ、いざ神戸に戻ることが許されても、決まったグラウンドは確保できなかった…。
永島昭浩氏の加入
当時のヴィッセル神戸はJFL(Jリーグの下部組織)に参加しており、Jリーグへの昇格を目指していた。しかし、昇格の道は険しく苦しい。
思うような結果が残せない中、クラブが頼ったのは、当時Jリーグで活躍していた元日本代表FWの永島昭浩氏。

神戸出身の永島氏に熱い想いが伝わり、下部組織にいるヴィッセル神戸への移籍が決まった。
当時、何が永島氏の心を突き動かしたのか。

永島昭浩氏:
Jリーグであろうが下部組織であろうが全く関係なくて、被災して、またスポンサーも撤退する中で、それでも立ち上がってJリーグを目指すんだと聞いたときに、チームでプレーしてなんとか力になりたいという想いが沸いてきた。
永島氏の加入から1年後、ついにその時がくる。震災から立ち上がりクラブは悲願のJリーグ昇格を手にした。その躍進は神戸の街に勇気と希望を与えた。
サポーターからの贈り物
時を経て震災から10年が経過した2005年、街は着実に復興へと向かう中、対照的にチームは危機的状況に陥っていた。この年、ヴィッセル神戸はJ2に降格。

そんな失意の状況に打ちひしがれる選手たちを救ったのが「神戸讃歌」だった。
この曲はヴィッセル神戸を応援するサポーターたちからの贈り物だった。
「神戸讃歌」に込められた思いを、サポーターを代表して瀬戸さんが語ってくれた。
瀬戸省吾さん:
震災を経験して、これまでは選手がサポーターや市民を勇気づけてくれた。次は、サポーターが選手を勇気づける。選手に元気になってもらうために曲を作れたらということで、「神戸讃歌」が生まれた。
サポーターたちが選手に贈った最高のプレゼント、その“魂の歌”は選手たちの糧となった。
翌2006年、ヴィッセル神戸はたった1年でJ1に返り咲き、この“魂の歌”は選手たちにとってはもちろん、サポーターにとっても特別な歌になった。

サポーター:
何十年後かになった時、僕らが歌を思い返せば、クラブがどう歩んできたか、この歌ひとつで語ることができるものだと思う。この街になくてはならないもの。
震災を経験していないサポーターも、「人生讃歌のような部分もあったりする。この歳になってみると、自分たちの人生を重ねることのできる、すごく深い歌詞だったんだなと、改めて思う。それが多くの人の共感をもらっている」と語る。
選手が、スタッフが、サポーターがひとつになれる。みんなを繋げる「神戸讃歌」。
ヴィッセル神戸に勤めて25年の芝さんは、それを体感していた。

芝英幸さん:
みんなで歌うことで震災を思い出して、これから頑張ろうっていう気持ちにさせてくれるんですね。スタジアムで試合を見る時って、周りは知らない方だらけですけれど、「神戸讃歌」を歌うことでひとつになれる。みんなでひとつになれば乗り越えられるって、そういう勇気を与えてくれる歌。
阪神・淡路大震災が起きた年に誕生したクラブは、街に、サポーターに、市民に、「神戸讃歌」と共に寄り添い強くなった。
絶望から希望へ、苦楽を共に歩んだ“魂の歌”を響かせるため、ヴィッセル神戸は2024年、見事にJリーグ連覇を達成。
そして、2025年は「the No.1 Club in Asia ~一致団結~」をスローガンに掲げ、さらなる高みへ躍進する。

『すぽると!』
毎週(土)24時35分~
毎週(日)23時15分~
フジテレビ系列で放送中