午前8時38分、救急車現着。救急隊応急措置実施。

午前8時46分、救急車が現場出発。

佐藤氏は長官車に乗って、救急車を文京区千駄木にある日本医科大学病院まで緊急走行で先導する。

長官の命を救った機動隊員の血

午前8時57分、救急隊、日本医科大学千駄木病院到着。

国松長官が搬送された日本医科大千駄木病院 1995年3月30日
国松長官が搬送された日本医科大千駄木病院 1995年3月30日

「病院に到着し、すぐに集中治療室に運ばれた長官には懸命な救急救命措置が施されました。ICUの外で待機していましたら、中から走って出てきた医師から『輸血用の血が足りません!』と言われ、切羽詰まった状況でした」

長官が手術を受けている病院の周辺には警備のため多くの警察官が駆けつけた 1995年3月30日
長官が手術を受けている病院の周辺には警備のため多くの警察官が駆けつけた 1995年3月30日

 「病院周辺には警備に駆けつけた機動隊が来ていて、『僕らのを使ってください』と若い隊員が、10数人くらいいたかなぁ、自分たちの血液を輸血に使って欲しいと申し出てきたんです」と言った時、佐藤氏は初めて閉じていた目を開けた。

「後日、長官を担当した救命医から『あの時の血が本当に助かりました』とお礼を言われた時にね、機動隊員が献血を申し出てくれたことを思い出して、胸に熱いものがこみ上げたんですよ。

『自分に何か出来ることはないか』という若者の必死な気持ちで、一人の命が救われたんですから」

公務に復帰し警察庁に入る国松長官(当時) 1995年6月
公務に復帰し警察庁に入る国松長官(当時) 1995年6月

話しながら目頭が熱くなったのか佐藤氏は再び目を閉じてこう言った。

「この事件がおきてしまったのは全て私のせいです」

「私が長官をお守りできなかった」

この15年、他人に事件のことを話さなかった。

頑なに心の中に自分の思いをしまっておいたために、15年溜めに溜めた自責の念があふれてしまったのだろう。

15年目にして初めての訪問者への初めての告白だった。

その後、しばらくの沈黙があった。居たたまれなくなった筆者は、すぐに佐藤氏宅を辞去した。

【秘録】警察庁長官銃撃事件②に続く

(執筆:フジテレビ解説委員 上法玄)

【編集部注】
1995年3月一連のオウム事件の渦中で起きた警察庁長官銃撃事件は、実行犯が分からないまま2010年に時効を迎えた。
警視庁はその際異例の記者会見を行い「犯行はオウム真理教の信者による組織的なテロリズムである」との所見を示し、これに対しオウムの後継団体は名誉毀損で訴訟を起こした。
東京地裁は警視庁の発表について「無罪推定の原則に反し、我が国の刑事司法制度の信頼を根底から揺るがす」として原告勝訴の判決を下した。
最終的に2014年最高裁で東京都から団体への100万円の支払いを命じる判決が確定している。

上法玄
上法玄

フジテレビ解説委員。
ワシントン特派員、警視庁キャップを歴任。警視庁、警察庁など警察を通算14年担当。その他、宮内庁、厚生労働省、政治部デスク、防衛省を担当し、皇室、新型インフルエンザ感染拡大や医療問題、東日本大震災、安全保障問題を取材。 2011年から2015年までワシントン特派員。米大統領選、議会、国務省、国防総省を取材。