私(筆者)は一度だけ手榴弾を投げたことがある。
ある取材現場で兵士に「アボカド」のような物体を一つ手渡され、「なるべく遠くに投げてごらん」と、言われるがまま、力の限り遠くに投げた。すると「ボンっ!」と乾いた音を立てて爆発し、円形の砂ぼこりが立った。物体は手榴弾だったのだ。その取材現場とは「ペルー日本大使公邸占拠事件」である。
127日間の取材は大きな爆発音とともに始まった
1996年12月。社会部記者だった私は警視庁キャップから電話を受けた。「お前、スペイン語話せたよなぁ。ペルー行くか?」。その日のうちにカメラマンとともに成田空港を出発。24時間以上かけて夜のリマにたどり着いた。長い長い「張り番取材」の始まりだった。
この記事の画像(12枚)1996年12月17日夜、ペルーの首都・リマにある日本大使公邸では、ペルーの政府関係者、要人、各国大使、日本企業の駐在員など700人以上が出席して天皇誕生日のレセプションが開かれていた。
その真っ最中に、左翼テロ組織「トゥパク・アマル革命運動(通称MRTA)」がパーティーの関係者に扮するなどして潜入、爆発物を手に大使公邸を占拠した。
過去最多の人質を盾に…大統領VSテロリスト、一歩も譲らず
テロリストグループは14人。犯行声明を発表し、収監されている仲間全員の釈放などを求めた。しかし、時の大統領アルベルト・フジモリ氏は強固な姿勢を崩さず、釈放を拒否すると同時に、犯人の投降と人質の解放を要求したのである。
発生から1週間ほどの間に高齢者、こども、女性など、人質の多くが順次解放されたが、青木盛久大使ら日本人24人を含む72人が残され、占拠は長期化した。同時に私たちの出張も長引いた。大使公邸を見下ろすマンションのペントハウスに構えた臨時の「リマ支局」には世界中の支局の特派員が集結し、取材に当たった。
公邸の中に出入りできるのは食料や家族からの手紙を託された赤十字の職員、交渉役の神父とカナダ大使のみ。
我々報道陣はペルー政府、軍などの情報を得るべく奔走した。その中で見えてきたのは「テロ」への根深い憎しみだった。
平和的解決か武力行使か…ペルー政府にとっては一択だった
冒頭の「手榴弾」は、ペルー軍の「突入訓練」取材での一環だった。ペルー軍は突入に向けて、公邸のレプリカを作り、訓練を重ねていた。我々は「事件解決後まで放送禁止」との約束で、取材を許された。リマから車で数時間離れた砂漠のような場所に行くと、目出し帽をかぶった兵士に出迎えられた。
対テロ部隊の責任者らはテロリストの標的になることがあるため、顔を見せないという。他にもやけどで顔や手がただれた兵士や、テロ事件で仲間や家族を失ったという兵士もいた。
彼らが口々に「犯人は絶対許さない」「生きて公邸から出ることはない」と、語っていたことが強く印象に残っている。
当時の橋本龍太郎首相が「人命最優先、平和裏に解決する」、つまり「犯人を他国に亡命させて、人質を救出する」と述べていたのとは対照的で、激しい温度差を感じたのを覚えている。
一方のフジモリ大統領は、積極的に「強い大統領」を発信、各国の首脳や外務大臣と会談し、「テロに屈しない大統領」をアピールし続けた。2000年までの任期中、国内のテロ組織を縮小させる功績を残している。
日本政府が犯人の亡命を受け入れてくれる国を模索している頃、フジモリ大統領はある作戦を実行に移していた。「トンネル作戦」である。公邸の裏に位置する民家から突入用のトンネルを掘り始めたのだ。24時間体制で公邸を張っていた我々は毎晩、山盛りの土砂を積んだトラックが往き来するのを目撃していた。掘削の音をかき消すための巨大スピーカーから流れる大音量の音楽にも慣れてきた。
爆風や爆音の中での救出作戦。そして燃えさかる公邸
そんなある日の朝、スピーカーからはいつもの歌謡曲や民族音楽ではなく、軍のマーチのような音楽が流れてきた。「何かが違う」と、不安な気持ちを抱きながら張り番を続けた昼過ぎ、突然爆発音が鳴り響いた。突入だった。事件発生から127日が経っていた。
何時間、中継を続けただろうか。爆発音や銃撃音が収まった頃、フジモリ大統領が現場に姿を現した。黒塗りの車から降り立った際はきちんとスーツを着ていたが、制圧された公邸の敷地内に入る前に上着を脱ぎ、シャツの袖をまくったのである。
これぞ「現場の指揮官」感を出す演出だと感じた。そして、防弾チョッキを身に付けると、作戦を遂行した兵士らをねぎらい、救出された人質を乗せたバスに乗り込んで大きなガッツポーズをして見せた。すっかり舞台上の主役、最高のパフォーマンスだった。
6年ぶりのフジモリ大統領との再会
そんなフジモリ大統領に筆者が次に会ったのは2003年。場所は東京だった。政権の腐敗などから日本に事実上の亡命をしていたフジモリ氏はインタビューに応じ、日本のルーツや、母親への愛、両親のふるさと熊本への思いなど、日本語混じりのスペイン語で答え、優しさを前面に出した。そして、笑顔でインタビュー場所を後にした。
ペルー人の友人にフジモリ評を聞くと、「彼はヒーローではなく、人殺しだ」と言う。
しかし、最高の演出家であり、パフォーマンスに長けた政治家だったことは間違いない。
彼の訃報に接し、ちょっぴり寂しい。