政治記者としての戦い

平成13年(2001年)4月26日の午後。 
フジテレビの報道局は熱気でムンムンしていた。 
小泉内閣が今日いよいよ発足するのだ。 
小泉さん、組閣では一体何をやらかすのか。 
メディア、特にテレビ局にとっては、 これから夕方の官房長官による閣僚名簿発表までの数時間、 どこの社が重要閣僚の名前を「抜く」のかが勝負である。 

政治記者の腕の見せ所だ。

 その日、僕は政治部のデスクをしていたのだが、 自民党担当記者のAから電話が入った。 いきなり「真紀子さん、外務大臣で(ニュース速報を)打てますよ」と言う。「誰が言ってるの?」と聞くと、 小泉さんに近いBさんが、 「外務大臣は太ったおばさんだよ」と言ったという。 

実はA記者は「おばさん」が誰なのかわからなかった。そしてもう一度Bさんをつかまえて聞いたら、 「真紀子さんだよ」と教えてくれた。 Bさんは小泉さんに関する情報源としては最上位にいる人だ。 

電話を切ってしばし考えた。

「ウラ取り」と「後追い」

通常こういうケースでは、現場の番記者が情報を取ったら、キャップに相談して、 別の政治家からウラを取り(当てる、という)、速報を打つ、という段取りを踏む。 

ただ今回の場合キャップが小泉さんの側近に当てたら、 その側近が真紀子外相をつぶしにかかる恐れがあった。 組閣の途中で閣僚が差し替わるのはよくある。Bさんの話は小泉さんとあと数人しか知らない情報だろう。 

ここは黙って速報を出して既成事実にした方がつぶされないのではないか。 そう考え、キャップには黙って速報を打つことにした。 テロップ用紙に「外相は田中真紀子氏」と書き、 「外務大臣は真紀子!速報だー」と叫んで、 テロップ用紙を頭の上に掲げてぐるぐる回すと、 報道局に「ウオー」という声が響いた。

 若手記者が僕が掲げたテロップ用紙をひったくって速報の打ち込みに行き、 やがて「ピコーン、ピコーン」というフラッシュ音とともにテレビ画面に速報が出た。 
もう一度報道局に「ウオー」という声が響いた。

「誤報」か「スクープ」か

これで夕方のニュースのトップが決まったプロデューサーは嬉しそうに走ってきた。 
さらに政治部長と編集長も心配そうに走って来たので、 「AがBから聞いた話だから大丈夫」と説明しておいた。

ニュースは通常、各部のデスクの判断で出す。 部長と編集長は編集権ではデスクの上位だが、 普通は口は出さない。でも普通ではないときは出す。 今回も本来なら部長や編集長に相談してもいい「案件」だが、僕はしなかった。 相談して「もうちょっと様子見ようか」とか「一応ウラ取ろうよ」 などと言われるのが嫌だったのだ。

 2時間がたった。どこも後追いしてこない。 この手の人事もののスクープは後追いされると実はホッとする。 誤報ではなかったという証明だからだ。だから後追いしてこないと実はつらい。 

編集長がまたやって来て 「まだどこも打たないね?」と心配そうに聞いてきた。 「打たないですね」と僕もやや心配になってきていた。 「でもよく2時間頑張ったよ。よくもった。うん。」と編集長はわけわからんことを言う。

誤報でもしょうがないということか? 結局どこも後追いしないまま夕方になり閣僚が呼び込まれ、 福田官房長官が閣僚名簿の読み上げを始めた。 

組閣の日に一社の「抜き」をどこも後追いしないまま、 官房会見になだれ込む、というのはこれまでないことだった。 真紀子さんも呼び込まれた。 彼女の入閣そのものは確実だったからだ。 実はウチが「真紀子外相」と打つ前に、 別の民放が「真紀子は行革相」と打っていた。 

どちらかが誤報なのだ。 

ドキドキしながら福田さんの読み上げを待った。 
胃がキュッとよじれる。 

福田官房長官による新閣僚読み上げ

「外務大臣」 と福田さんが名簿を読んだ後、口元がゆがんだように見えた。 

よし、真紀子だ。 
なぜなら福田さんは真紀子さんがたぶん嫌いで、 真紀子外相には反対したに違いないからだ。 

田中真紀子外相(当時)

「田中真紀子」 
福田さんがそう言った時、肩の力が抜けた。 
誤報じゃなかった。ウチのスクープだ。 
編集長が来て僕の肩をもみながら、 

「平井ちゃん、誤報じゃなくてよかったなー」と嬉しそうにささやいた。 
いや本当によかった。 
これほど緊張した組閣は初めてだった。まさに小泉劇場だ。 
しかしなぜ真紀子さんを外相にしようなんて思ったのか。

小泉新総裁に花束を渡す田中真紀子氏 2001年4月24日

「官房長官にはしないが外相くらいには」

小泉さんの盟友である山崎拓さんの著書「YKK秘録」によると、 組閣前夜に森喜郎前首相から 「真紀子が官房長官にしろと小泉にねじ込んでいる」 という電話があったので、 山崎さんが小泉さんに電話すると、 「官房長官にはしないが外相くらいにはしないと収まるまい」 と答えたという。 

確かに小泉さんの総裁選勝利に、 真紀子さんが果たした役割は大きかった。 
首相になる前の小泉さんは厚生、郵政など地味な閣僚をやっただけで、 総裁選に出てよく負ける人、という印象だった。 

ただ2回目の総裁選で真紀子さんから「変人」と呼ばれた頃から、 少しずつ注目され始めた。 その小泉さんが森首相退陣後の、 2001年4月に行われた総裁選で、突然ブレイクした。

背景としては、まず2000年に小渕首相が急死した後、 青木幹雄官房長官らが総裁選を行わずに、 密室で森さんを首相にしたことに対して強い批判が上がっていたことがある。 

さらに森さんの失言が相次ぎ支持率が急落して、 自民党に対し改革を求める機運が高まっていた。 
この機に乗じた小泉さんは、 「自民党をぶっ壊す」という有名なセリフで一気にヒーローになった。 

幸運だったのは、 その直前に首相候補の本命だった加藤紘一元幹事長が、 森退陣を要求する「加藤の乱」を起こしたことである。 

これに小泉さんと同じYKK仲間の山崎さんは同調したが、 小泉さんは森支持を打ち出す。 

結局加藤の乱は鎮圧され、加藤さんの首相の芽は消えた。 
小渕首相の突然の死、森政権の失敗、加藤の乱の鎮圧という負の連鎖にうんざりした国民は変化や、改革という正の動きを渇望していた。

そして小泉さんを変人呼ばわりした真紀子さんが支持を表明すると、 小泉劇場はさらにヒートアップした。 

ある時、北千住の駅前で小泉さんと真紀子さんが街頭演説した。 
撮影デスクが来て、「すごい人だよ」という。 
中継画面を見ると見たこともないような人の数が駅前にあふれている。 
1万人は超えているだろう。 
これはすごい。

「熱狂」「シラっ」「期待」「ホッ」

平成には政権交代が4回あった。 

93年の細川政権誕生の時に国民は「熱狂」した。
94年に自社さで自民が取り返した時は「シラっ」としていた。
2009年に民主党が政権を取った時は熱狂ではなく、静かな「期待」があった。

12年に安倍さんが取り返した時はみんな「ホッ」とした。

小泉劇場は細川政権誕生時に匹敵するくらいの熱狂だった。 
つまり並みの政権交代よりはるかに面白かったということだ。 
それでも総裁選は党内を押さえている橋本龍太郎氏が勝つのではないか、 というのがメディアの予想だった。 
党員票が世論に近い傾向を持つようになったとは言え、 メインは議員票なので小泉さんは勝てないだろうと。 

しかしそこから先の展開は早かった。 
世論の後押しを受けて党員票は小泉さんが圧勝した。 
すると議員票もあっさり小泉さんにひっくり返り、 まさにあれよあれよという間に小泉総裁=首相が誕生してしまったのだ。 

真紀子外相は人事の失敗か

小泉さんは久しぶりに出た強い首相だった。 

外相に就任し、「私は変人の生みの親なので育てていかないと」 と語った真紀子さんだが,評判はあまり良くなかった。 外務官僚と最初からけんか腰で相対し、まともな会話ができていないようだった。

後の検証では、北方領土交渉で、これまでの積み重ねを全部ナシにしてしまったとか、 密入国した金正男を簡単に北朝鮮に返してしまったとか、 外交政策についても批判を浴びた。 

真紀子外相というのは小泉さんの人事の失敗だったのか。 
真紀子さんに言われて、しょうがなく外相にしたけど、 うまくいかなかったのだろうか。 

小泉さんは実は外交を真紀子さん抜きで、 外務官僚と直接交渉していろいろやっていた。
真紀子外相時代に、拉致問題で北朝鮮との秘密交渉をやらせているし、 自ら訪米もしてブッシュ大統領との関係も構築している。

小泉外交には実は真紀子さんの影はあまり見えないのだ。 

真紀子さんは9か月後に小泉さんによって解任された。

「スカートを踏んづけられて」と、半べそをかく姿は少しかわいそうに見えた。
しかしあれだけもてはやしたメディアや国民も、もうそっぽを向いていた。 
小泉劇場第1幕の主演女優は真紀子さんだった。 
だが真紀子さんが降ろされた2幕以降は主演女優は不在で、 監督兼主演男優である小泉さんの一人芝居が延々5年間続いたのだった。

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
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