太平洋戦争末期のアメリカ軍による「佐賀空襲」。443の家屋が焼け61人が死亡した。当時、焼夷弾の投下を目にした少年。キラキラと夜空から降り注ぐその光景が、94歳になった今も脳裏から離れないという。

子供心に漠然と感じた恐怖

佐賀空襲の記憶を語るのは、佐賀市諸富町に住む林五郎さん(94)。

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昭和16年(1941年)12月8日、日本軍はハワイオワフ島のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃。太平洋戦争が始まった時、林さんは小学6年生だった。

林さんら子供たちは小学校の講堂に集められ、校長から太平洋戦争が始まったことを告げられた。校長のメッセージは、「戦争が始まるからみんなで一丸となって頑張ってくれ」というものだった。林さんは、子供心に漠然とした恐怖を感じたという。

林五郎さん:
ほんと涙が出て、今も覚えております。校舎で(開戦の)話を聞いて、しくしくと泣いていたのを覚えております

アメリカ軍が日本本土を爆撃

当時は成人男性の多くが兵隊となり戦地へ赴いたため、少年や女学生などが軍需工場で物資を作るのが一般的だった。いわゆる勤労動員だ。

地元の高等小学校を卒業し、当時15歳だった林さんは、働かされる前に早く就職をした方がいいと思い、現在の「味の素」である大日本化学工業株式会社の佐賀工場に就職した。

戦争末期になると、アメリカ軍の爆撃機が日本本土へ爆撃するようになる。このため空襲警報が出されると、地面や山の側面などに掘った防空壕にたびたび避難する状況になっていた。

焼夷弾が夜空にキラキラと

就職して1年が過ぎた昭和20年1945年8月。林さんは同僚と一緒に職場で寝泊りをしていた時、空襲警報が出され防空壕に避難した。

避難してしばらく経った時、一緒に避難していた同僚から「防空壕から顔を出してみろ」と言われ、林さんは言われるがまま外のようすをうかがった。

西の方を見ると、キラキラと空から降り注ぐ光。十代半ばの少年はその“綺麗”な光景に目を奪われ思わず見とれていた、その時…近くの集落で爆発が起きる。夜空を彩っていたのはアメリカ軍が投下した「焼夷弾」だったのだ。

木造家屋を狙った”油入り”焼夷弾

焼夷弾は木造家屋が多い日本に対してアメリカ軍が使った爆弾で、ガソリンなどの燃え上がりやすい物質が詰め込まれていたという。

林五郎さん:
焼夷弾で指を失った人が何人もいました。私の友達も2人(指を失った)。珍しいから触ってしまって、ちょうど着火するあたり、薬品かなにか知らないけれども取り出す時に爆発して、亡くなった人もいたようです

米軍は「ノーダメージ」と記録

佐賀空襲では約30機の爆撃機から投下された焼夷弾で、佐賀市南部を中心に443の家屋が焼け、死者は61人に上るとされている。

しかし、この佐賀空襲について、当時のアメリカ軍が記録した報告書には、「ノーダメージ」“戦果なし”としか記録されていない。

終戦から79年、今でも焼夷弾が空から降り注ぐ光景は林さんの脳裏に焼き付き、何度も思い出すという。

林五郎さん:
思い出すだけでもぞっとしますね。戦争より怖いものはないなと思う

(サガテレビ)

サガテレビ
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