1945年、広島に投下された原子爆弾によって命を落とした移動演劇「桜隊」。その隊長を務めたのは、愛媛県出身の俳優、丸山定夫(1901年~1945年)だった。松山市コミュニティセンターの一角にたたずむ胸像の人物、丸山定夫の生涯と、彼らの遺志を継ぐ人々の思いを追った。

「新劇の団十郎」丸山定夫の軌跡

1901年(明治34年)、愛媛・松山市に生まれた丸山定夫は、若くして演劇の道を志した。

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1924年、関東大震災からの復興の中で建てられた築地小劇場で、研究生としてキャリアをスタートさせた。チェーホフ作「桜の園」やモリエール作「守銭奴」など、数々の名作舞台に出演し、その実力を磨いていった。

映画界でも活躍し、伊丹万作や成瀬巳喜男といった名だたる監督作品に出演。その卓越した演技力から「新劇の団十郎」と呼ばれ、多くの観客を魅了した。

丸山定夫が「大叔父」にあたるという、75歳の木南直樹さん(丸山定夫の兄の孫)。「私の祖父が三男で、丸山定夫はそのすぐ下の弟・四男です。そういう有名な俳優が母方の親戚にいると小さいころから聞いています」と語る。

木南さんは丸山が巡演した場所を訪ね、「芝居をやった施設というのはほとんどなくなっていましたし、こんなところまで来て、満員電車に大道具を載せて一つ一つたどり歩いたんだなあ。そこまでして芝居をやりたかったんだと、あらためて思いました」と、その情熱に思いを馳せた。

戦時下の移動演劇「桜隊」と隠されたメッセージ

戦時中、国威発揚の国策として各地を慰問する移動演劇隊が組織された。

丸山定夫は「桜隊」の隊長として、広島を拠点に中国地方を巡演した。桜隊には元宝塚スターの園井恵子ら15人が所属し、軍需工場の工員たちに芝居を披露した。

広島平和記念資料館に所蔵されている1枚の絵には、広島市内の軍需工場の工員のために桜隊が上演する様子が描かれている。

丸山定夫が選んだ演目は、劇作家・三好十郎の「獅子」。
母親の決めた結婚相手ではなく、好きな人の後を追って満州へと旅立つ娘の父親を演じた。その父親のセリフには深い意味が込められていた。

「人間一生一大事の時は自分がホントに正直に、したいと思うことを思いきってやらんならんぞ!それが人間の道じゃぞ」

国の許可がなければ、役者も演劇もできない時代。この作品に隠されたメッセージは、時代への痛烈な批判だったのだ。

原爆の悲劇と追悼の祈り

1945年8月6日、運命の日を迎える。

桜隊は、爆心地から約750メートルの宿舎で被爆した。
9人中5人が即死し、残る4人は一命を取り留めたものの、丸山定夫は終戦翌日の8月16日に原爆症で息を引き取った。44歳だった。ほかの3人も8月中に相次いで亡くなった。

2024年8月6日、東京・目黒にある五百羅漢寺で移動演劇桜隊の追悼会が開かれた。遺族や演劇関係者など100人余りが参列し、亡くなった9人をしのんだ。

天恩山五百羅漢寺代表役員の日高秀敏さん(57)は、法要の挨拶で、「当山では毎年8月6日の原爆の日に犠牲になられた移動演劇桜隊の9名の方々の慰霊法要を行っております。戦争による悲痛な思いや悲しみはいまだにこうして続いています」と語った。(※日高秀敏さんの高は「はしごだか」)

日高さんは慰霊碑について、「昭和27年(1952年)にこの地に建立された。徳川夢声さんという桜隊と親しくされている方がいた。その徳川夢声さんがここ(五百羅漢寺)に建立した」と説明した。

丸山定夫の親族である木南直樹さんは、「数奇な運命としか言いようがありませんね。44年の人生を苦悩をしながら駆けて、最期はああいう形で突然命を奪われた」と、複雑な思いを語った。

丸山定夫の最期を看取った隊員

追悼会では法要のあと、関係者が桜隊への思いを語った。
講堂での朗読では、「昭和20年8月15日の正午を私たちは一生忘れないだろう。戦争が終わった、戦争が終わった」という言葉が響いた。

桜隊の隊員で、原爆投下時に東京にいたため難を逃れた槇村浩吉の孫にあたる、眞山蘭里さん。眞山さんは講演で、「桜隊が慰問にまわっているじゃないですか。旅公演のスケジュールもタイトだし、肉体労働して舞台じゃないところでも舞台をやってるんですね」と、当時の苦労をしのんだ。

槇村浩吉はあの日、広島の桜隊の宿舎で妻の小室喜代を亡くした。生前、槇村浩吉は妻・喜代の死を語ることはなかった。

眞山さんは「家を取り壊さなきゃならなくなって資料を片付けていたときに、喜代さんの物が出てきた。こんなにあるじゃないか、喜代さんが子供の時からの写真が」と、祖父の思い出を語った。

丸山定夫の最期を看取ったのは槇村だった。丸山の最期を、槇村は、「赤ん坊が布団から這い出して眠ってしまったように、手を前に伸ばして、うつぶせの姿勢だった。」と書き残している。

「未来にバトンを渡す役目担っている」

追悼会では俳優の常盤貴子さんらが朗読劇「桜隊・2024『手紙』」を上演した。常盤さんは映画「海辺の映画館 キネマの玉手箱」で桜隊の隊員を演じた。

朗読劇では、桜隊の一員で23歳で亡くなった森下彰子が、戦地にいる夫にあてた手紙が朗読された。

「あなたに見ていただくつもりで一生懸命にお稽古をしています。私は11月初めまで広島におります」という妻の言葉に、夫・川村禾門役・君澤透さんが「8月6日のあの日、一通の電信を手にしました。解読すると『特殊な爆弾が広島に落ちた、被害甚大』、そう読めました。すぐに頭を彰子のことがよぎりました」と応える。

そして、「もし、あの原爆にあわなかったら」という言葉が会場に重く響いた。

常盤貴子さんは最後に、「今私たちは重要な時代を生きていて、未来にバトンを渡す役目を担っている。戦争によってやりたいこともやれず、言いたいことも言えず、大好きな演劇を続けることがこれだけ難しくなってしまうということも、一緒に伝えていくことができたら」と、平和の尊さを訴えた。

演劇を続けることを選びたどり着いた広島で、原爆によって未来を奪われた丸山定夫と桜隊の隊員たち。私たちは改めて平和の尊さを考えさせられる。

(テレビ愛媛)

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