“赤の他人”である少年の将来を案じ、自身が罪に問われる大胆な行動に出た医師がいる。

秘密を漏らした“罪人”か、それとも、他人のために自分の身を投げ打った“英雄”か。 17年の月日を経た歴史の法廷で、あなたはこの医師をどう裁くだろうか。

■2006年 母子3人が亡くなった放火事件が発生

母子3人が亡くなった放火事件の現場(2006年)
母子3人が亡くなった放火事件の現場(2006年)
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始まりは、奈良県田原本町で母子3人が亡くなった2006年の放火事件。自宅を放火したのは、長男である少年(当時16歳)だった。少年の逮捕後、「少年には3人に対する殺意があった」との報道が相次いだ。

少年の精神鑑定を担当したのが、精神科医の崎濱盛三医師(当時49歳)だった。 犯行には少年の「広汎性発達障害」が影響しており、少年に「殺意は全くなく、再犯の可能性もない」と鑑定。家庭裁判所は、崎濱医師の鑑定書を信用できると判断した。 その結果、少年は刑務所行きを免れ、教育が目的の少年院送致となった。

■事件を題材にした『僕はパパを殺すことに決めた』出版 鑑定医が秘密漏示罪に問われる

放火事件の現場(2024年)
放火事件の現場(2024年)

鑑定医としての仕事を終えた崎濱医師は、さらに少年のために思い切った行動に出る。

「少年が社会復帰する時に備えて、『殺人鬼』であるとの世間の誤解を解いておきたい」

そう考えた崎濱医師は、少年事件と発達障害に詳しいジャーナリスト草薙厚子さんからの取材依頼に協力することにした。そして、少年の供述調書などを見せた。

しかし、事態は思わぬ方向に動いていく。草薙さんは、事件を題材にした本『僕はパパを殺すことに決めた』を出版。

この本は、大部分が供述調書をそのまま引用した内容で、すぐさま法務省が問題視。 出版から4カ月後、奈良地検が草薙さんや崎濱医師の自宅に強制捜査が入る。そして情報源だった崎濱医師が秘密を漏らした罪で逮捕起訴された。

検察の任意同行に応じる崎濱医師
検察の任意同行に応じる崎濱医師

取材に協力した鑑定医が秘密漏示罪に問われた初めての事件。当時『僕パパ』事件とも呼ばれ、大きく報じられた。

崎濱医師は、取材に協力して調書を見せたが、出版は事前に知らされていなかった。 自分のあずかり知らないところで出された本によって、罪に問われた。まさに想定外の事態だった。

調書を見せたことを後悔しているだろう…と誰しもが思うところだが、崎濱医師は法廷で次のように語っている。

崎濱盛三医師:結果がこういうことになってしまいましたけど、私の信念は信念でそのままありますので、後悔はしておりません。

■「発達障害」がほとんど知られていない時代 “信念”に基づいて調書を世に出した医師

研修医時代の崎濱医師
研修医時代の崎濱医師

結局、崎濱医師は執行猶予付きの有罪となり、医師免許を1年間失うことになった。 高校の数学講師などを経て、36歳で医師となった崎濱医師。まだ発達障害がほとんど知られていない時代から、その第一人者として家庭裁判所からも頼りにされていた。

音羽病院の松村理司院長(当時)
音羽病院の松村理司院長(当時)

崎濱医師が勤務していた音羽病院の松村理司院長(当時)に当時の崎濱医師の様子を聞いた。

松村理司院長(当時):私の当時の言葉で言うと、彼は『思想的確信犯』。彼が言うには、発達障害という病気のせいで事件が起きているので、(少年は)殺人罪ではないんだということを、自分は世間に明らかにしたいが、その力が自分にはない。草薙さんはその力を持ってるからそれを託したと。そのために自分は罪に問われて医師免許を失うかもしれないが、自分はそれを良しとすると。

崎濱医師は初めから医師免許を失う覚悟があったという。初めて耳にする話で驚いた。 当時は発達障害の理解が進んでおらず、発達障害と犯罪が安易に結びつけられて語られる状況に崎濱医師は危惧を抱いていたという。

少年に対する誤解と発達障害に対する偏見を一刻も早く解かなければならない。まさに“信念”に基づく行動だった。

当時、彼は罪に問われ、社会はその“信念”を受け入れなかった。事件から17年、社会は異なる評価をするだろうか。

(関西テレビ 報道センターディレクター 上田大輔 2024年7月12日)

関西テレビ
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