戦後の復興に尽力 「原爆市長」浜井信三さん

自宅の庭でゴルフのスイングをする1人の男性。映像では、顔はよく見えない。

しかし、別の映像でその人物をはっきりと確認することができる。

右から2番目のスーツを着た人物。戦後の復興に尽力し、「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三さん。
1958年、慰霊碑前で撮影した写真。映像と同じ日に撮影されたものとみられる。

浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」だった。
被爆の実相を語る肉声は、8月5日の広島の様子から始まる。

声 元広島市長 浜井信三さん:
8月5日、これは非常に、われわれとしては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラをまいたということでございました。そのビラの中に、「8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれ」というビラをまいたといううわさが1週間くらい前からたっておったわけです。8月5日は危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちをわれわれは持っておったわけです。

声 元広島市長 浜井信三さん:
ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました。「そら来た」といって、私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました

その後、午前0時に再び空襲警報が鳴り、浜井さんは市の防空本部へ向かった。
そして午前2時、空襲警報が解除された。

声 元広島市長 浜井信三さん:
(自宅と市役所を)行ったり来たりするのは面倒ですから、遠いところ。役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへ転んどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない

朝まで眠れないと感じた浜井さんは、市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えたが、夜中に起こすのは申し訳ないと思い直し、自宅へ戻った。

目がくらむような閃光、爆風が家を木っ端みじんに

声 元広島市長 浜井信三さん:
(午前)8時頃に兄嫁が庭で干し物をしていたら、「Bさん(B29)が何かを落としたよ」と大きな声で言っているんです。飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした。ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した

原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かった。

声 元広島市長 浜井信三さん:
比治山橋の近所までやってまいりますと、向こうから雪崩をうつように、いろんな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく。みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん。

声 元広島市長 浜井信三さん:
そして私を見ると、「あちらの方には火はないか」、「お医者さんはいないか」ということを聞いてくる。火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないで、どんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく

声 元広島市長 浜井信三さん:
よく見ると、みんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている。何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです。やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、このままでどんどん、どんどんこうして逃げてくる。その人たちに聞いてみると、全員が「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる

“被爆の実相を語った”肉声の発見

広島市佐伯区。
浜井さんの妻・文子さんの自宅から音声と映像が見つかった。

長男・浜井順三さん(84):
昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね出てきたんですよ

2019年7月、浜井さんの妻・文子さんが105歳で亡くなり、2020年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと音声テープが見つかった。

1958年に完成した原爆の子の像が写っていること、そして撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。
そして浜井さんの声は、市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられる。

順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、テレビ新広島のスタジオなどで復元した。
証言の中では、落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れている。

声 元広島市長 浜井信三さん:
2~3日後に私、新聞記者に聞きました。これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた。それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます。原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです

平和祭の開催…その理由は

その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催する。
この平和祭を開催した理由についても語っている。

声 元広島市長 浜井信三さん:
昭和22年頃になりまして、ようやく市民が当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと。そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました

声 元広島市長 浜井信三さん:
こういうことはじっくりと準備してかからないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない。いけなければ、やりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです。それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う。どうしてもわれわれの使命だと、そうすることは生き残ったわれわれの使命なんだというふうなことで、市民の意志が結集されたのがこの平和祭だったんです

“あの日”と同じ場所の平和公園は…

7月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらった。

長男・浜井順三さん(84):
一番左が僕だと思います

ーーいくつくらいの時?

長男・浜井順三さん(84):
おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね。妹だと思います。それから母親、父親、これも妹だと思います

長男・浜井順三さん(84):
昭和30年くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね

その後、私たちは、順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れた。

ーーこのあたりが動画で見たあたりですね

長男・浜井順三さん(84):
そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう

順三さんは、あの日と同じ場所を探した。

長男・浜井順三さん(84):
この辺かもわからん、この辺だね。やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく

ーー時の流れは感じますか?

長男・浜井順三さん(84):
感じますね、1つ1つが木も大きくなっていますしね、70年たって、本当に見違えるようですよね

核兵器の恐ろしさ 世界へ伝えていく使命と責務

浜井さんは、広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど、広島の復興と平和活動に尽力したが、1968年に62歳の若さでこの世を去った。
肉声の中で浜井さんは、科学の進歩に合わせて、核兵器がさらに恐ろしいものになるのではないかと危惧している。

声 元広島市長 浜井信三さん:
私たち、当時直感したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと。おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺りくや破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました

声 元広島市長 浜井信三さん:
人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということは、すぐわれわれも感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に、科学兵器というものがどんどん発達していけば、結局人類は、兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです

長男の順三さんは、父親に言われた言葉が今も強く残っていると話す。

長男・浜井順三さん(84):
75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを、子ども(私たちきょうだい)に言い聞かせていたことを、いまだに強く頭に印象に残っている

長男・浜井順三さん(84):
広島は、世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民1人ひとり含めて、そういうことが今ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う

(テレビ新広島)