「国際女性デー」が制定されている3月にあわせ、フジテレビのアナウンサーが自分の視点でテーマを設定し取材し、「自分ごと」として発信します。
2024年4回目の担当は島田彩夏アナウンサーです。
私が1998年にアナウンサーとしてフジテレビに入社した時、「女子アナ」という言葉は一般用語のようにごく自然に使われていた。私自身も、局内でも局外でも「女子アナ」と呼ばれていた。入社してからの何年間はアナウンサーになれたことがただただ嬉しく、与えられた仕事は何でも全力でやらねばとあがいていた時分で、自分がどう呼ばれているのかということに正直関心は薄かった。ところがある頃から(多分30歳を過ぎたころだったろうか)なんだかくすぐったいような、「いえいえ私はそんなことないですよ」と言ってみたいような“違和感”を持ち始めたのを覚えている。
このところ、その違和感の正体は何なのだろうとずっと考えている。アナウンサーとして働き続ける中で、この仕事がジェンダーを意識させれられることが多い職業であるということは確かであり、そのことと「女子アナ」という造語とどう関係するのかを考えたいとずっと思っていた。
2月末、お声掛けした松尾紀子さん(1983年入社、2015年退社)と長野智子さん(1985年入社、1989年退社)がフジテレビアナウンス室に姿を見せるととたんに場が華やいだ空気になった。今回、国際女性デーをきっかけに「女子アナ」時代を駆け抜けた先輩方に女性アナウンサーの立場についてお話を伺いたいとお願いしたら2人とも二つ返事でOKくださった。後輩現役アナの遠藤玲子さん(2005年入社)にも話に加わってもらう。着席するや、話は盛り上がり話題も多岐にわたった。
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よろしくお願いします!
長野智子さん:
遠藤さん、初めまして。勤続18年なのね、すごいなあ。私の時代なんか女性のアナウンサーがその年齢まで活躍ってなかったから。
松尾紀子さん:
そうそう。30歳っていうのが番組につくか、つかないかの最後の年齢みたいな感じだったわよね。私より前の女性の先輩は25歳定年。私は入社したとき、契約社員だったの。しかも2年ごと更新の契約。
遠藤玲子さん&島田彩夏:
えええ!
同期男性アナは他の男性一般職と同様、正社員としての採用だった。松尾さんはマスコミを志望していたが、1983年、フジテレビは女性の一般職採用がなくアナウンサーのみの募集だった。全34人の新規採用の中で女性は契約アナウンサーの3人だけだったという。
「女子アナ25歳定年」時代
遠藤さん:
なんで2年契約だったんですか?
松尾さん:
名残だったと思うんだけど、私達より先輩の女性たちの時代には『25歳定年』っていうのがあってね。「25歳になったら女性は辞めるでしょ」って。だから、多分「契約だからいつでも解除できる」っていうのが会社としては良かったのかな。
遠藤さん:
え、ちょ、ちょっと待ってください。それってじゃあわずか3年で辞めるってこと・・・?
松尾さん:
でもね、それはフジテレビだけじゃなくって世の中がそうだったの。大手銀行とか商社も女性の総合職はなく、将来有望な男性に出会い社内結婚したら女性が辞めるっていうのが、日本全体で割と当たり前。それが『25歳定年』だった。
遠藤さん:
松尾さん、2年契約に納得されて入社したんですか?
松尾さん:
それがね、私、「2年契約」だと知らされてもあまり疑問に思わなかったの。
これには全員が驚きの声を上げる。私にとって、松尾さんこそがフジテレビアナウンス室でジェンダーの道を切り拓いて来られた先輩だという思いがあったので、男女で採用がこんなにも違うことに疑問を抱いていなかったのが意外だった。
松尾さん:
今日最初に言おうと思ったことだけど、やっぱりあの時代には、多くの女性も意識がそこに及んでいなかったと思うんです。社会の常識があまりにもそうだったから。「それは違う」っていう意識を持つ女性は、よほど意識が高かったのだと思う。私も当然だと思っていた。入社前、人事に「女性3人は契約だけど、ずっと更新されるし、給与も変わらないから大丈夫だよ」って言われた記憶があり、いい会社だなと思っていたくらい。
全員:
いやー、すごいなあ!
松尾さん:
それに対して私たち3人は誰も異議を唱えず「はい、わかりましたあ!」って。
長野さん:
この間亡くなられた元文部大臣の赤松良子さんから聞いたお話ですが、日本の高度成長期、海外の先進国には女性の人権を守り差別を禁じる法律があったのに、日本にはなかった。「そんなの本当の先進国ではない!」と、男女雇用機会均等法の成立に尽力されたんです。だから、松尾さんがおっしゃるように、本当に日本ってそういう国だった。女の人も別に疑問に思っていない。
松尾さん:
そうよね、知識も意識も、なかった。
長野さん:
私が入社したのが、男女雇用機会均等法が成立した1985年で、松尾さんの2年後輩です。私たちは正社員として採用されました。
お茶くみの“しきたり”はA4サイズのメモで
松尾さんも1985年に社員採用に切り替わった。フジテレビでは1986年の法律の施行に先駆け、まず84年からは女性の一般職で、そして85年の法律成立時からは女性アナウンサーも正社員としての採用になった。それまで女性は「25歳定年」、「契約(しかも2回までの更新・最長6年まで)」の時代が長く続いていた。法律ができることで男女の雇用に対する企業の「枠」は大きく変化したといえる。ところが、ガワは変わっても中身と言えばそうもいかなかったようだ。
遠藤さん:
新人の時、男女で仕事は同じでしたか?
長野さん:
新人アナウンサーです、って入ると女性だけ呼ばれて、女性の先輩から「これ覚えてね」ってA4くらいの紙が渡されるんですよ。男性アナウンサーのお茶の好みが書かれている。
松尾さん:
手書きの紙だったわね。
遠藤さん:
えーーーー。
長野さん:
出社されたら、露木さんはコーヒーでブラックとか。逸見さんは日本茶とか。野間さんは甘いコーヒーがお好きとか、男性全員分。
松尾さん:
放送や取材からお帰りになった時や、ホッと一息する時の好みも書いてあったよね。
遠藤さん&島田:
ひえええええ。
長野さん:
つまり、男性が席に座ったら飲みたいものを聞かなくても出す、ってことなのよね。でね、やっぱり私も「そういうもの」だって思ってた。女性だけやらされてるっていうことに対して怒りはないというか。面倒くさいというのは正直あるんですけども。
新人アナウンサーは様々な仕事を仰せつかる。アナウンサー業務で昼夜問わず働いていても、朝のお茶くみ、夜の茶碗洗いは新人女性アナウンサーに長いこと課されていた業務だった。私の新人時代(1998年)にはお茶くみは既になかった(茶碗洗いはまだ女性アナだけの仕事だったが)。
茶碗を洗うために“出社”することも
遠藤さん:
私だったら、入社してそれをやりなさいって言われたら「え、なんで女性だけなんですか」ってなっちゃうと思います。いつそれがなくなったのですか?
長野さん:
私もいた頃だから、80年代終わりくらいかな。
松尾さん:
当時の部長か副部長に私が言いました。私も「女性だけ」ということに対する強い怒りはあんまりなかったんだけど、茶碗洗いのためにロケ先からアナウンス室に戻らなきゃいけないとか、それを気にしてること自体がすごく嫌になったの。他にも細かい仕事で忙しいわけよ、若い頃って。世の中に10杯分ぐらい作れるコーヒーメーカーが出てきていたから、それでいいんじゃないかって思ったの。それで上司に「新人は本当に大変なんです。世の中にはコーヒーメーカーっていう便利なものもありますよね」って言ったら、割とすんなり「いいよ」って言ったんです。ええ、いいんですかっ?!て感じ。
長野さん:
そこに問題意識を持っていないんですよね、男性って多分。別に「やれ」っていう気持ちでいるんじゃなくって、それが当たり前だと思っているから、こっちから言うと意外に「あ、いいよ」っていうふうになるんじゃないかな。
松尾さん:
ただ、みんなに知らせるのは(アナ室の幹部会などではっきり宣言せず)女性たちで、現場から「じわじわ」と伝えてくれって言われたんですよ。
まだお茶くみを女性の役割だと思っていた男性も多い時代だったから、理解を示してくれた男性上司も大きな声では言いづらい雰囲気があったのだろうか。室内業務で、お茶くみなど女性の役割だと思われていたことを女性の先輩たちの行動で徐々になくしていったということが分かった。では、放送業務ではどうだったのだろうか。
番組の中での“女子アナの役割”
松尾さん:
例えばひとつのニュース番組内でも男性アナが読む原稿は事件事故が中心で、女性アナはトピックスとか天気とか、そういう感じで割り振られていた記憶がある。
長野さん:
私は、1年目は『夜ヒット』のレポーターや天気予報を担当し、2年目になって『モーニングコール』のMCになりました。
松尾さん:
長野さんのお天気はすごく斬新で、よく覚えてます。だってそれまではお天気お姉さんのような、若い女の人が可愛らしく「今日は晴れるでしょう」って言う感じだったでしょ。でも長野さんは違っていた。この長身で、天気図が隠れるぐらいの身振り手振り。アナウンス室でも「長野すごい!動いてる!」って、みんな度肝を抜かれていた。
長野さん:
踊る天気予報って呼ばれていました。パラパラパラパラポン!とか変な擬音も入れて。
松尾さん:
やっぱり同じ天気を伝えるにしても、面白くやってみんなに伝わるように、っていう人なんだなと思うの。その開拓者精神は未だに生きてると思う。
長野さん:
ありがとうございます。でも踊ったり、色んなことやりすぎて『ひょうきんベストテン』に呼ばれました。(笑)
長野さんが入社した年の8月、日航機墜落事故が起きた。そこから長野さんは報道を志すようになったという。ただ、フジテレビに在籍していた期間、担当するのはバラエティ番組が多く、長野さんが報道番組に携わるようになるのはそれからもっとずっと後のことになる。
遠藤さん:
そもそも女性アナウンサーって、80年代半ばはどういうふうな見られ方だったんすか?
長野さん:
今でも覚えてるんだけど、私が85年に入社して86年のお正月に初めて女子アナ特番があった。『新春・女子アナスペシャル』みたいな感じで、そこで初めてフジテレビが女性のアナウンサーをまとめて売ろうとしたんだと思います。
嵐のようだった「女子アナブーム」
私自身長らくフジテレビでアナウンサーをしているが、正確にいつ「女子アナ」という言葉が生まれたのか今まで知らずにいた。社内の古い資料を手繰ってみると、少なくとも1980年の資料で「女子アナウンサー」「女子リポーター」という呼ばれ方をされていたことが確認された。もっと古い資料を読み込むと、他にも「女子嘱託」「女子職員」「女子従業員」など、現在では「女性」」と表されるであろう従業員としての呼称がすべて「女子」となっている。男性社会の労働環境の中で女性はすべて「女子」と呼ばれていたのだ。
これはあくまで個人的な推察だが、社内での女性に対するこういった呼び方から、自然な流れで「女子アナ」という呼称を放送に乗せるようになったのではないだろうか。
86年以前にも『オレたちひょうきん族』、『なるほど!ザ・ワールド』という大人気バラエティ番組があり、出演していた女性アナウンサーの生き生きした表現が評判を呼んでいた。松尾さんは、もしかしたらこの2番組が「女子アナブーム」を作っていく土台になったのかもしれないと指摘する。
松尾さん:
それまでは女性アナウンサーは、ニュースやお天気をやっていました。
長野さん:
そうでしたよね。その2つの番組だけはものすごくバラエティなんですけど、他はナレーションをやったり、ニュース番組の取材やリポーターをやったり。役割としては真面目な感じでした。ただ、私が入社する前には益田由美さんと山村美智さんが「楽しくなければテレビじゃない」っていうコマーシャルをしていらっしゃいませんでしたか?フジテレビがちょっと今の萌芽を見せ始めていた時代だったんでしょうね。
遠藤さん:
「女子アナ」ブームの時代にその中にいたお2人はどう感じていたんですか?
長野さん:
すごかった。記憶がないぐらい。
松尾さん:
あれよあれよと言う間だったわ。
長野さん:
次から次へと仕事が来て、何でもやらされました。ドラマにも出てたし。27時間テレビもずっとやって、朝の帯番組も続けて出たり。半年間は週5日、早朝の今の『めざまし』の枠を担当し、夜中に『ひょうきん族』。ですから当時は「女子アナ」だとか、周りから言われているということについて全く考えもしなかった。
松尾さん:
長野さんはまさに嵐のような「女子アナ」の渦中にいたからね。
「女子アナっていう言葉を廃止して欲しい」
長野さん:
私がフジテレビにいた80年代の頃のテレビっていうのは、「観ている人をどう裏切るかっていう媒体」だったというか、それが楽しくて仕方がなかったのを覚えています。
松尾さん:
確かに、色々なチャレンジがあったわね。「フジテレビのDNA」ってよく言ってたじゃない。だから「女子アナ」っていうパッケージを売り出すというのも、やっぱり何かこう、当時のフジテレビの開拓精神ということがすごくあったんだと思うんです。
長野さん:
ですから本音を言うと、私は「女子アナ」という言葉にあまり抵抗はないんです。当時のテレビ局が自社のアナウンサーを売り出す一つの戦略と感じていたというか。視聴者とアイドルの狭間にいる「社員タレント」のようなファンタジーとしての「女子アナパッケージ」は「あり」だと思っていました。
ただ、それが職業の総称みたいに使われて、仕事などに関してどこか女性アナを軽くみてるのではという論争はすごく分かります。「女子アナ」は職業の総称じゃなくて、若手時代の対外戦略のひとつ。そういう意味で、私は若手時代に精一杯「女子アナしたなあ」という爽快感の方が大きいというか、あまりネガティブではないのかもしれません。
松尾さん:
そうね、長野さんは本当にすごく頑張ったし、やりきった感があるんじゃないかな。私みたいに、何かの時だけ「お前女子アナだから」って呼ばれるのは違和感があった。私はバラエティ番組をほとんどやらなかったし、ブームの直前にニューヨーク支局に赴任していて日本にはいなかった。それで、2年半後に30歳で帰国したときに突然「女子アナ」って呼ばれた。え、私の年齢が「女子なの?」っていう違和感よね。『女子アナスペシャル』のような番組で、すごく派手なトルコブルーの振袖があてがわれたんだけど、何だかとても居心地悪く、ひな壇に座ってニコニコしてる自分が結構辛かった。
それで私、いつだったか広報部の偉い人のところに「女子アナっていう言葉を廃止して欲しい」って言いに行ったもの。
長野さん&遠藤さん&島田:
へえええええ!知りませんでした!
松尾さん:
「『男子アナ』って言葉はないのに『女子アナ』って呼ばれることに、私だけじゃなく違和感を持ってる女性アナウンサーが結構います」ということを伝えました。そしたらその方は「女性アナウンサーを下に見てるとか、そういう意味合いじゃなく、パッケージとしてもう『女子アナ』という言葉は世の中に出ちゃってるから、今更急に『女性アナウンサースペシャル』っていうのも歯切れが悪い。じゃあ、社内ではあなたたちを『女子アナ』って呼ぶのはやめていこう」って言われたの。
「このままフジテレビにいても・・・」と退社を決意
遠藤さん:
私は「女子アナ」をテレビで観てきた世代なので、愛称のようなものとして受け入れていました。入社して最初のうちはそう呼ばれることにも違和感はなかったんですけど、アナウンサーとしてのキャリアを積んでいくうち、段々と、例えば女性アナ何人かで写真集を出すとか、なんで私達がこれをやらないといけないのかなと思い始めました。
長野さんは女子アナブームの渦中にいて、やりきったから辞めたんですか?
長野さん:
あのときの心境はね、もう生活がアンコントローラブルだった。仕事仕事仕事仕事、って。本当にプライベートが全くないくらい忙しかったんで、このままだと結婚しても結婚生活できないなと思った。だから普通に結婚退職でした。恋に落ちたんです。
長野さんはずっと報道の道に進みたいという熱い思いを抱き続けていたにも関わらず、退社に踏み切った。それはなぜだったのだろう。
長野さん:
今思うとあの頃の私は了見が狭かったなと思う。当時は、私はフジテレビではもうニュースが読めないと思い込んじゃったんだよね。あまりにもバラエティすぎちゃって。周りに「ニュースやりたい」って言っても「お前なんか二度とニュース読めるわけないだろ」って言われて。だったら外に出て、もう一回自分で目指そうかなっていう気持ちもあった。このままフジテレビにいても本当にやりたいことはもしかしたらできないかもって。アナウンサーとしてちゃんと努力して経験を積んでいけば、いつかニュースが読める未来もあるっていうことは今の自分なら知っているけど、当時はそうは考えられなかった。今思うと本当にもったいないことしたなと。今の私だったら辞めなかったと思う。
それほど、覚悟を持って長野さんは「女子アナ」を引き受けていたのだと思う。やりたかった報道への道をフジテレビでは諦めざるを得なかった辛さを飲み込み、「女子アナをやり切った爽快感が大きい」と言う長野さん。背負っていたものの大きさを知る。
(取材・文/フジテレビアナウンサー 島田彩夏)
(後編に続く:
「社内初のママアナ」「退社して“夢”かなえたキャスター」「約20年ぶりの女性実況」が語る【女子アナたちの時代】)