京都アニメーション第1スタジオを放火し、36人の命を奪った青葉真司被告の判決が25日に京都地裁で言い渡される。なぜ、あのような事件を起こしてしまったのか。青葉被告の幼少期からの半生を独自取材した。

■「非常にいい子」前向きだった人生に何が?

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青葉真司被告:
自分の半生を考えていました。京アニは光の階段を上っているように見えて、自分の半生はあまりにも暗い」

2019年7月18日、社会を震撼させた京都アニメーション放火殺人事件。建物の中にいた36人が死亡し、32人が重軽傷を負った。

スタジオの中でガソリンをまいて火を放ち、殺人などの罪に問われた青葉真司被告(45歳)。自らも全身の9割以上に重いやけどを負い、生死をさまよった。

事件直後の青葉被告を目撃した人:
『パクられた』とかっていうような言葉も使っていたような。自分が悪いんじゃなくて、被害者的なものの言い方をしていたように聞こえました

3カ月あまり続いた裁判の審理の中で、明かされていく真相。青葉被告を犯行に駆り立てたものは一体何だったのか。

■自らの生い立ちを語った青葉被告

平成以降、最も多い犠牲者が出た殺人事件。注目の初公判を傍聴しようと500人が列を作った。

車いすに乗り、マスク姿で入廷した青葉被告。体には赤いやけどの痕が、生々しく残っていた。

青葉真司被告:
私がしたことに間違いありません。当時はこうするしかないと思ったが、こんなにたくさんの人が亡くなるとは思っていませんでした。現在はやりすぎたと思っています

“京アニに小説のアイデアを盗まれた”。青葉被告は警察への取り調べなどで、犯行の動機について、このように語っていた。

検察側と弁護側の主張は被告の責任能力を巡り、真っ向から対立。

検察側は「生い立ちから、人のせいにしやすいなどのパーソナリティーが表れた犯行」と指摘し、完全に責任能力があると主張。

一方、弁護側は「犯行には被告の妄想が大きく影響した」として、心神喪失で無罪を主張した。

その後の被告人質問で、青葉被告は自らの生い立ちを語り始めます。謎に包まれた半生をたどった。

■明るい子どもだった…9歳から家庭に異変

1978年、青葉被告は当時の埼玉県浦和市で生まれた。

トラック運転手の父と母・兄・妹の5人で暮らしていた青葉被告。体格がよく運動が得意。明るくて活発な子供だったという。

小学校の同級生:
みんなで『バオウ、バオウ』と呼んでいました。青葉の“バ”にラオウの“オウ”で『バオウ』です。北斗の拳にラオウというキャラクターがいるんですよ。青葉被告の体が飛び抜けて大きかったので、ガキ大将的なイメージを重ねて言っていた

幸せな家庭に陰りが見え始めたのは9歳の時。父が母に暴力をふるうようになり、両親が離婚。その後、父に引き取られ、暴力の矛先は青葉被告と兄に向くようになる。

小学校の同級生:
一回だけ家に行ったんですよ。ごみ屋敷みたいな感じでした。カップ麺食べたあとがそのままですとか、服脱ぎっぱなしとか、そういう家はごまんとあるかもしれないですけど、今まで行った友達の中ではすごいなという印象がありました

幼少期について、青葉被告は次のように話していた。

青葉真司被告:
正座させられたり、ほうきで散々たたかれたりしました。一番自分がたたかれていたと思います。(外で)素っ裸にされて、『立っていろ』と言われた記憶があります。異論を唱える余地はない、『出ていけ』と言われるだけなので、受け入れるしかない

虐待は、青葉被告の体が大きくなる中学生の時まで続く。父親は無職となり、生活保護を受けるようになった。地元の中学に進学したが、困窮した生活が続いて家賃が払えなくなり、引っ越しせざるを得ない状況に。

当時、転校した学校で周囲となじむことができなかった様子を同級生が初めてカメラの前で語った。

中学校の同級生:
先生に言われて、『転入してきた子がいるから残りの時期も短いし、クラスに溶け込めるかどうかを一応気にしてて』と。例えば『いじめられたりしたらこっそり先生に報告して』と言われたのが一番記憶に強いんですよ。学校に来なかった時もあって、プリントとか届けたような気がするんですけど、ここの場所なんだと覚えていて、ただ家族構成も分からないですし、とにかく暗いイメージ。あまりコミュニケーションを取りたがらない印象が強いので

あえて人通りの少ない道を選んで通学していた青葉被告。早足で、誰とも視線を合わせようとはしませんでした。そして、そのまま不登校になった。

■「あの子を悪く言う人はいない」「ごく普通の人間」

その後、一度は就職しようと考えていた青葉被告だったが、夜間の定時制高校への進学を決めたことで、人生が好転する。

定時制高校の元教員:
非常に明るくて友達みんなに慕われていました。生徒会長をしていたはずです。黒板に書いた字はしっかり書きとるし、教科書もちゃんと持ってきて出すし、定時制の中では“非常にいい子”でした。コミュニケーションは取れていました。あの子を悪く言う人はいないんじゃないですか、教員の中でも、生徒の中でもそうだと思いますよ

4年間一度も欠席することなく卒業。関係者によると、ひと学年およそ30人の中で、皆勤はわずか2人だけだった。青葉被告はいつも一番前の席で授業を受けていた。

青葉真司被告:
高校は真面目なのは10人くらいで、他は後ろで(週刊少年)ジャンプを読んでいる。真面目だと先生を独り占めできるんです。家庭教師みたいに細かいところまで教えてもらって、真面目にやった記憶があります

定時制高校に通う傍ら、青葉被告は昼間、埼玉県庁の文書課で3年間働いていた。

仕事は庁舎内で郵便物を仕分けること。当時の上司は、熱心に仕事に取り組む青葉被告の姿を覚えていた。

埼玉県庁の元上司:
こういう中身なんですけど、これはどこの階の棚に入れたらいいですかって、本当にそんな感じで聞くんですよ。言葉使いそのものは普通ですね。トラブルがあったとかはなく、みんなよくやっていたなって思うんですけどね。お昼休みに、本当はお昼休みなので受付しなくていいんですけど、カウンターがあるんです。直接来る人もいるし。普通だとみんな、お昼休みで休んでいるわけですよね。休んでいても、『すみません、お昼休みで』と言って来ても、(青葉被告は)受け付けしていましたね。青葉さんはちゃんとしていました。それは覚えている。えらいなと思いながら見ていた

文書課での月の収入は10万円程度。無職だった父もこの頃にはタクシー運転手として再就職した。生活にも余裕ができ、稼いだ金で、趣味のギターやバイクを買えるようになった。

青葉真司被告:
(Q.定時制高校は、あなたの人生の中で一番いい時代でしたか?)
それはあると思います。お金もあり、いろいろなものに触れられた、いい時代でした

埼玉県庁の元上司:
青葉君の中で一番安定した時期だったのかなと思うんです。自分で勉強もできたし、非常勤職員でいたから収入もあったでしょうし、一番幸せな時だったのかな、だから普通の人だったのだろうなって。3年間はごくごく普通の人間、青葉さんは。それがなぜ、あんな風に変わってしまったのか、ターニングポイントがいつなのか、私は知りたい

■父は自死…その後、狂い出した歯車

葬儀をした住職:
これが合祀墓(ごうしぼ)です。青葉真司のお父さんが入っているお寺の供養塔です

青葉被告が21歳の時、父が亡くなった。

葬儀をした住職:
経済的に最低の経費をかけない葬儀ってことで、遺影までは作っていなかった。(Q.青葉真司さんはここにお参りは来たことありますか?)いや、私は見たことはないです

父は交通事故で大けがをして以来、寝たきりの状態だった。
青葉被告は父に対し「お前の葬式には出ない」と何度も言っていた。

葬儀をした住職:
真司のお父さんの亡くなり方がそういう状況だったので、言葉はそれぞれ、皆さん少なかったですよね。(Q.そういう状況とは?)要するに真司のお父さんは自死なので、誰もそういうことには触れたくなかったんでしょうね。(Q.父親の死はどういうものだった?)衝撃的だったと思うし、自分たちを見捨てたというのもあるんじゃないですかね。お母さんにも見捨てられていますからね、最後にお父さんにも見捨てられたというショックもあるんじゃないですか

父の死をキッカケに、歯車が狂い出す。

青葉被告は埼玉県春日部市内で一人暮らしを始め、コンビニのアルバイトを2つかけもちしていたが、人間関係をこじらせ辞めてしまう。無職になり、自宅の電気やガス、水道は止められた。荒んだ生活が続く中、28歳の時、初めて事件を起こす。

女性の下着を盗んで逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

家を出て行った母親が面会に訪れましたが、かたくなに会おうとはしなかった。

青葉真司被告:
親父が死んでから、誰にも頼らず一人で生きていこうと決めていました。いい方向に向かなくなり始めていると痛感した記憶があります。前科があると、一度ついちゃったからもういいか、となってしまう。自分を支配していた良心がなくなった気がします

■転落する人生 そして京アニとの出会い

再出発はうまくいかなかった。派遣の仕事をしても長続きせず、リーマンショックによる不況の最中、2008年の年の瀬に、雇用促進住宅に移り住む。

(Q.緊急入居なんですね?)
雇用促進住宅の管理人 好田茂夫さん:
そうですね、この時はホームレスだったので

孤立し絶望の淵に立たされる中で出会ったのが、京都アニメーションの作品「涼宮ハルヒの憂鬱」だった。

小説家になれば、人と関わらずに身を立てることができる。考える時間は24時間365日いつでも…。京アニは、青葉被告にとっての“唯一の光”だった。

青葉真司被告:
2009年にハルヒのアニメを見て、こんなすごいアニメがあるんだと痛感しました。小説に全力を込めれば暮らしていけるのではないかと思い、書き始めました。最高のシナリオを送れば最高のアニメが作れると思いました。京アニなら…と

そんな夢を描くも、現実は…。

雇用促進住宅の管理人 好田茂夫さん:
これが滞納家賃の内訳ですね。最初から払っていないですね。丸々3年くらい払ってないんじゃないですか。夜中に毎日、12時4分に目覚ましが鳴るって書いてますね。5分くらい鳴るんだと書いていますね

近くに住む人から相次ぐクレーム。昼夜逆転の生活が続き、小説の執筆もうまくいかなかった。

雇用促進住宅の管理人 好田茂夫さん:
台所の隣の部屋ですけど、壁が相当大きくへこんでいたんですね。コンクリートなんですよ、この建物は。コンクリートの上にモルタルを塗ってあるんですけど、中のコンクリートまで破壊していたので、相当すごい力でしょうね。その下に普通サイズより大きめのハンマーがあったので、あぁ、これかと。ノートの切れ端、日記のようなものがあった気がしますけど。パソコンがベッドの脇、頭の横に置いてあって、画面が割られていたという状態ですね

34歳の時、コンビニで強盗し、2度目の犯罪を起こした。取り調べでは「秋葉原で起きた無差別殺傷事件の犯人と同じ心境だ」と話した。

青葉真司被告:
人生を振り返ったときに下着泥棒も、コンビニ強盗も、人とのつながりが完全になくなったときに犯罪に陥る共通点がある

強盗事件で服役。刑務所を出てからは生活保護を受けながらさいたま市のアパートに一人で暮らしていたが、母だけでなく親族を含め、人とあまり関わろうとはしなかった。

一方で、夢をあきらめきれず、一念発起して小説を完成させ、京アニのコンクールに応募した。しかし、結果は落選。

そして、京アニの作品を見て、自身の小説のアイデアが盗まれていると考えるようになった。

心のよりどころはネット掲示板だけ。京アニへの憎しみが膨れ上がっていった。

青葉真司被告:
どうしても許せなかったのが京アニだった気がします。パクったりをやめさせるには、スタジオ一帯をつぶすくらいのことをしないと、という考えはありました

検察官:
今から放火殺人をやろうとしていることへの迷い、ためらいはありませんでしたか?

青葉真司被告:
やはり、ためらうものです。自分のような悪党でも、小さな良心がありまして…。自分の半生を考えていました。京アニは光の階段を上っているように見えて、自分の半生はあまりにも暗い

凶行に及んだ後、全身に大やけどを負い、生死をさまよった青葉被告。そんな彼の命を救ったのが、上田敬博医師だった。

青葉被告が逮捕され、拘置所に移された後も治療のため何度も訪ね、主治医として向き合い続けた。青葉被告はなぜ、事件を起こしたのか。上田医師にだけ明かしたことがある。

上田敬博医師:
(青葉被告に)なんでこんなことをやってしまったのかと聞いたんですけど、『追い詰められていた』と言っていました。埼玉の家を出る時に、京都に向かう途中、『これから人の道に外れることをやってしまうと思いながら京都へ向かった』と僕には言っていて。それって迷っているということじゃないですか。そこで諭したり、とがめたりする人がいたら、止められたんじゃないかなと思うと、自分含め誰かが彼にぶつかっていったりとか向き合うことはできなかったのかとすごく悔やまれるし、同じような人間ってたくさんいると思う。犯罪しようとしたり、孤立して自暴自棄になっている人間はたくさんいると思うので、そういう人間を少しでも減らしていかないといけないとすごく思います

凄惨な事件から4年半。1月25日、判決が言い渡される。青葉被告は、罪とどのように向き合うのか。

(関西テレビ「newsランナー」 2024年1月24日放送)

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