能登半島地震の発生時刻、午後4時10分。
兵庫・神戸市で黙とうがささげられた。
阪神淡路大震災で母を失った男性が抱く思いとは…。

母の愛、支えてくれた人への感謝

6434人が犠牲になった阪神淡路大震災から29年。
灯籠で形作られた「ともに」というメッセージには、能登半島地震の被災者に対する思いが込められている。

灯籠で形作られた「ともに」というメッセージ
灯籠で形作られた「ともに」というメッセージ
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1995年1月17日午前5時46分。突然襲った15秒ほどの揺れにより、街は元の姿を完全に失った。
崩れた建物は多くの命を奪い、人々の営みを破壊した。

1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神淡路大震災から29年
1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神淡路大震災から29年

神戸市に住む鈴木佑一さん(34)は震災当時、母と兄の3人で暮らしていた。

鈴木佑一さん:
僕の母親のお地蔵さんは、兄が作ったものです。

当時、鈴木佑一さんが母と兄と暮らしていた母子世帯が身を寄せる母子寮は全壊。3人は建物の下敷きになった
当時、鈴木佑一さんが母と兄と暮らしていた母子世帯が身を寄せる母子寮は全壊。3人は建物の下敷きになった

佑一さんが手を合わせる場所には当時、生活に困窮した母子世帯が身を寄せる母子寮があったが、震災で全壊。
佑一さんは、兄と母の富代さん(当時44)と共に下敷きになり、富代さんは命を落とした。

母の富代さん(当時44)は震災で命を落とした
母の富代さん(当時44)は震災で命を落とした

兄は父に引き取られ、佑一さんは児童養護施設へ。
震災により、佑一さんはわずか5歳でひとりぼっちになったのだ。

鈴木佑一さん:
頑張って生きるというよりかは、死ぬのが怖いから頑張るみたいな、そんな状況でした。

ほとんど記憶にはないという母の姿。
それでも、一緒に映るたった1枚の写真に残された母の言葉が支えとなった。

母と一緒に映る唯一の写真。その裏には「愛する佑一と」と書かれている
母と一緒に映る唯一の写真。その裏には「愛する佑一と」と書かれている

鈴木佑一さん:
「愛する佑一」というメッセージが(写真の裏に書かれている)。愛してくれてたんだなと思いますし、母にとって自分は大切な存在だったんだなと思いますね。

母の愛を実感することができた鈴木さん。
震災の犠牲者として、その母の名前が刻まれた東遊園地で、これまで支えてくれた人たちへの感謝の言葉を口にした。

「自分の人生を少しでも、僕は支えてもらったので」と話す
「自分の人生を少しでも、僕は支えてもらったので」と話す

鈴木佑一さん:
自分の人生を少しでも、僕は支えてもらったので。それに対して感謝をして、何かしら僕が生きていることが役に立てたらなと。

元日に発生した能登半島地震により、今も1万5000人以上が避難生活を送っている。
共に寄り添い、震災の教訓を生かす取り組みが求められている。
(「イット!」1月17日放送)

<フジネットワーク サザエさん募金>能登半島地震救援

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