2023年3月にガンにより31歳の若さで亡くなった、東京五輪バレーボール男子日本代表のセッター、藤井直伸選手。日本バレー界に世界で勝つための“速さ”を吹き込み、そのマインドを確かに遺していった。

Mr.サンデーがたどったのは、そんな藤井選手が最期の最期まで日本代表のために闘い抜いた377日間の記録。「龍神NIPPON」躍進の陰にあった、もうひとつの“闘いの記録”だ。

セッター、リーダーとして…「練習ノート」の記録

藤井直伸というセッターがいかに凄かったのか。それは、東京五輪のたった一つのシーンを見るだけでわかる。

藤井選手があげたトスを李博選手がアタック。一見、そのプレイは、よくあるクイック攻撃に見える。しかし違う角度から見てみると、藤井選手のトスは、コートの半分以上をわずか0.4秒ほどで横移動し、相手の選手は全くついていくことができない。

イタリアのセリエAで活躍する日本の若きエース・髙橋藍選手も、その凄まじさについて「本当に速すぎる」と語る。

バレーボール男子日本代表 髙橋藍選手:
李さんとのコンビのBクイックで見ていて分かると思うんですけど、あれはもう藤井さんと李さんしかできないですからね。本当に速すぎて。

藤井選手の「練習ノート」
藤井選手の「練習ノート」
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“黄金コンビ”と言われた李選手は、あのトスも血のにじむ努力から生まれたものだという。

元日本代表・東レアローズ 李博選手:
(藤井さんは)宿舎に戻ったらずっとバレーの映像を見ています。いろんな戦法とか、いろいろ今日の反省とかも踏まえて、勉強しなきゃいけないからということで。映像を見て、ノートにひたすら書いていた。

練習ノートの記録
練習ノートの記録

藤井選手が書いていた「練習ノート」には、その日の練習内容から、課題、反省点、対戦相手の情報、さらには選手ごとにどんなトスをあげるべきかまでが、事細かに書き込まれていた。

藤井選手のバレーボール人生は、決して順風満帆ではなかった。宮城・石巻市で生まれた藤井選手は、2010年に強豪校を求めて順天堂大学に進学。しかし1年生の終わりに、実家は東北を襲った津波に飲まれてしまった。

東日本大震災で実家が被災した
東日本大震災で実家が被災した

藤井選手(2017年のインタビュー):
(大学の)授業料も払える状況ではなかったので、それが無理だったらもう(バレーボールを)諦めるしかないかなっていうふうに思っていたんですけど……。

それでも、大学からの授業料免除や高校時代のバレー部仲間からの援助を受け、卒業後は「東レアローズ」に所属。

藤井選手(2017年のインタビュー):
普通の家に住めることのありがたさだったり、ちゃんとしたご飯が食べられるありがたさだったりっていうのを、すごい身に染みて感じることができたので、ちゃんとバレーと向き合うこともできましたし、バレーは好きなんだなっていうのも改めて思いました。

2017年に日本代表の招集を受けた藤井選手
2017年に日本代表の招集を受けた藤井選手

バレーができるありがたさを噛み締めた藤井選手は、震災から6年、ついに日本代表の招集を受けた。

「彼のクィックボールは最高だった」と語るブラン監督
「彼のクィックボールは最高だった」と語るブラン監督

バレーボール男子日本代表 フィリップ・ブラン監督:
日本は背が高くないので、速いボール、スパイクの速度が必要です。つまり日本は、素晴らしいセッターが必要でしたが、フジはその一人でした。彼のクィックボールは最高でした。

こうして藤井選手は、日本が世界に勝つために必要不可欠だった “速いバレー”を代表に吹き込み、東京五輪では29年ぶりの8強入りの原動力となった。その時初めてキャプテンを任された石川祐希選手は、藤井選手の貢献ぶりはそれだけはないと話す。

「藤井さんはみんなをポジティブにしてくれる存在」と語る石川選手
「藤井さんはみんなをポジティブにしてくれる存在」と語る石川選手

バレーボール男子日本代表 石川祐希選手:
(東京)オリンピックの時はやっぱり僕がキャプテン始めた年だったので、非常にサポートしてもらったなとか。藤井さんはみんなをポジティブにしてくれる存在。苦しい中でも、僕だけじゃなくて、いろんな選手に声をかけてくれたりとか。やっぱり心強かったです。

その言葉通り、東京五輪での映像には、試合直前に、選手の一人一人に声をかけ、緊張をほぐしていく藤井選手の姿が捉えられていた。

セッターとして、リーダーとして、チームメートのことを考え続けたことが「練習ノート」からも伺える。

「らん ライトもう少し伸ばす?」(「練習ノート」より)

髙橋藍選手:
僕自身は最初、初めて2018年に代表入りして、すごくその時からコミュニケーションをとってくれていましたね。「藍、トスどう?」って言って。「もう少し高くしてください」って言ったら、すぐそれが要望通りになるというか。このような世界なんだ、というところをまず先に教えてくれましたね。

さらに、パワフルなプレーとチーム随一の得点力を誇る西田有志選手についても記されていた。

「西 速さ○高さもっと出して」(「練習ノート」より)

バレーボール男子日本代表 西田有志選手:
藤井さんにもずっと言われたんですけど、「お前は考えずに思いっきり生きろ」みたいな。自分はやっぱりこういう生き方なんだろうなっていうのは、そこですごく思いましたね。だから今もその生き方できていますね。

胃がんステージⅣが発覚

ところが、東京五輪から4カ月。所属チームに戻り、キャプテンとして相変わらず練習ノートをつづっていた藤井選手は、その中に自らの体調不良を記すことになる。

練習ノートには体の異変について記されていた
練習ノートには体の異変について記されていた

「12月18日 目が疲れるのは体育館のせい?けいたいの見すぎ?」(「練習ノート」より)

当時の様子を今回初めて語ってくれたのは、藤井選手の妻であり、自身も日本代表のセッターとして活躍した美弥さんだ。

インタビューに応じてくれた藤井選手の妻・美弥さん
インタビューに応じてくれた藤井選手の妻・美弥さん

藤井選手の妻・美弥さん:
ボールの見え方がちょっとあまり良くないっていう期間が長く続いて、でも病院に通ってもなかなか原因が見つからず、ただそこから、しっかり全部検査した方がいいって、検査入院に入って……。

そこで明らかになったのが、胃がんステージⅣ。まさにこれからというタイミングでの、無情すぎる診断……目の不調は、がんが脳へと転移したことによるものだった。

その絶望的な報告を所属チームにする藤井選手の姿が残っている。

2022年2月、胃がんが見つかったことを報告した藤井選手
2022年2月、胃がんが見つかったことを報告した藤井選手

藤井選手(2022年2月13日撮影の映像):
最初目の異常から、約2週間くらい検査入院させてもらって、本当に全身検査してもらって、その検査やっていく中で、ちょっと驚くかもしれないですけど、僕に胃がんが見つかりました。僕自身は、結構気持ちの整理はできていて、今こうやってみんなに話すと、悲しいなという思いになってくることはあるんですけど。前向きに……かかってしまったものはしょうがないんで、これからは、ちょっとみんなとは違った闘いになってしまうかもしれないんですけど。今までバレーボールやってきて、これから僕が闘病していくことも、バレーボールやってきたことと同じことをやっていくだけだと思ってるんで……。どんな状態でもファイナル3とファイナルは一緒に行くんで。だから連れて行ってください。

涙を見せつつも、気丈に報告を済ませた藤井選手は、キャプテンとしてこう話した。

藤井選手(2022年2月13日撮影の映像):
チームとしてやっぱりミーティングだったりなんかして、みんなで勝つんだっていう意識をちゃんと明確に持てることによって、やっぱり試合に出せる力ってのは、また変わってくると思うんで。

その姿に、妻の美弥さんは……。

藤井選手の妻・美弥さん:
私は最初は本当にバレーもいいし、チームの心配も仲間の心配もいいけど、本当にちょっと自分の心配をしてほしいって思った時もあったんですけど……。

しかし、それは間違いであったことに妻は気づいていった。

李選手との「Bクイック」 バレーボールが“生きる力”に

放射線治療に、抗がん剤治療。苦しい副作用に耐えながらも、少しでも体調が良ければ体育館へ。髪が抜けても、藤井選手は全くいつもと変わらず、バレーの話をし続けていたという。

西田有志選手:
「お前に絶対トス上げるから」って言われたのがすごい印象に残っています。「早くトス上げに来いよ」みたいな……。藤井さんはもう本当にガチで1年後プレーしているっていう話をしていたんですよ。やっぱ藤井さんだなって、僕はすごい思いましたね。バレー大好きだし。誰よりも。

また、体調が少し良くなった2022年8月にはトレーニングをすることもあった。そんな姿を間近で見ていたのは、日本代表で東レアローズのチームメートでもある髙橋健太郎選手だ。

バレーボール男子日本代表 髙橋健太郎選手:
本当に病気しているのかなって思うぐらいバレーボールは見ているし、闘病生活中ずっと映像を見ていたのか、より詳しくなっているし、この人すごいバレーが好きなんだなって。

しかし、そんな思いとは裏腹に、病魔は確実に藤井選手の体を蝕んでいった。体調が悪化し起き上がることもできなくなった藤井選手だったが、2022年12月29日にはストレッチャーで体育館に向かった。そこには、藤井選手を迎えるたくさんの仲間たちの姿があった。

2022年12月29日、ストレッチャーで体育館を訪れた藤井選手
2022年12月29日、ストレッチャーで体育館を訪れた藤井選手

藤井選手の妻・美弥さん:
藤井本人のためにも、みんなに会わせて元気をもらいたいっていう思いと、やっぱり本当に慕われてた人間なので、藤井に会いたいっていう人がとにかくたくさんいて……。

体育館には、かつて“黄金コンビ”と呼ばれた李選手もいた。

李博選手:
「ちょっとお前Bクイック練習しろよ」って(藤井選手に)言って。「お前、練習したら治るんじゃない?」みたいな。そういう感じで僕と藤井を真ん中に持ってきて……。

もう、ボールを持ち上げることすら難しい体。それでも、藤井選手はボールを宙にあげ、そのボールを李選手がアタックした。藤井選手と李選手の「Bクイック」だ。集まった仲間たちからは大きな拍手があがった。

藤井選手の妻・美弥さん:
本当に正直ちょっと心配になるような状況の中、仲間たちの顔を見て、さっきまで嘘でしょってぐらい皆の名前呼んで、ニコニコ笑って。

以前は「もっと自分のことを考えて」と思っていた美弥さんだったが、その時、次のように感じたという。

藤井選手の妻・美弥さん:
でも、やっぱりそれは本当に私の大きな間違いで、彼にとってそういう生きる力って本当バレーボールが1つ大きな力だったんだなって思うくらい本当にバレーが大好きで。

コートに戻ると信じ、闘い抜いた藤井選手

「WE ARE アローズ!!」藤井選手を囲み、大きなかけ声をあげた選手たち。

そして、藤井選手は「またな」と仲間たちに声をかけた。

美弥さんが放るボールにトスを返す藤井選手
美弥さんが放るボールにトスを返す藤井選手

まさにその言葉通り、その5日後の2023年1月3日の映像には、美弥さんが放るボールにトスを返す藤井選手の姿があった。

2023年1月10日には練習に参加
2023年1月10日には練習に参加

さらにその1週間後の1月10日には、自分の足で立ち、練習にまで参加してみせたのだ。

一体誰がそんな姿を想像しただろう。わずか2週間ほど前までボールを持ち上げるのもやっとだった藤井選手が「Bクイック」のトスを出し、体育館で練習を始めていた。

藤井選手は本気でコートに戻ろうとしている。その噂は、所属チームだけでなく、日本代表の心にも火を点けていった。

藤井選手の妻・美弥さん:
彼なら(がんに打ち勝って)やってくれそうって、多分私だけじゃなかったと思うんですけど、チームメイトもきっとそう思ったと思うんですけど、とにかく私もそう信じていましたし、それも彼の強さですよね。

しかし、その姿こそが日本バレーへの遺言だったかのように、2023年3月10日、藤井選手は美弥さんに見守られ、静かに息をひきとった。希代のセッターは、亡くなる瞬間まで本気でコートに戻ると信じ、闘い抜いた。

藤井選手の妻・美弥さん:
病気した、病気しない関係なく、ずっとそういう目標を持って、そこに情熱的に取り組むっていう、それが彼の生きざま、彼自身だったと思っている。

藤井選手が遺したバレーに対する情熱は、今も仲間たちの心に息づいている。

髙橋健太郎選手:
挑戦することを彼から教わった。彼が日本代表から病気で外れて、そのやりたかった部分を僕が投げ出すわけにはいかない。一緒にまだいますけど、心の中にもいるし、皆さんの心の中にも藤井さんの存在っていると思う。

髙橋藍選手:
今も(藤井選手と)一緒に僕は戦っています。ネーションズリーグでもそうですけど、アジア選手権も、必ず藤井さんはいたと僕は思っていますし、一緒になんならコートで僕は戦っている気持ちでずっといるので。

西田有志選手:
藤井さんもこの舞台に立ちたかったし、結果残したかっただろうから、それを自分たちでしっかり残すっていうのはありますね。きれい事じゃなくて、みんな本当に思ってることだと思う。

石川祐希選手:
「オリンピックでメダル取ったよ」って話を藤井さんには伝えたいなというふうに思うし、見せたいなというふうに思うので、そのためにもこのOQT(パリ五輪予選)でまずしっかり、結果を出したいと思います。

藤井選手が遺した“速いバレー”を進化させ続けているからこそ、今の日本代表は強いのかもしれない。そして、もう一つ。本当の強さの秘密は、そのコートの中では今も、藤井直伸という“もう一人の日本代表”が闘っているからかもしれない。

(「Mr.サンデー」10月1日放送より)

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